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「逃げた?」
その話を聞いたのは見世に出る少し前のことだった。朝からいつも以上に苛々としていた女将が誰彼構わず当たり散らしていた訳を、夕暮れ時になってようやく七坂は知った。何やら騒々しいのは気がついていたが、特に気にかけてはいなかったし、そんな噂話を七坂の耳に入れるような同僚もいなかった。あれ以来、砂貝は七坂を無視している。
「梅落がいなくなったらしい」
しかも男衆の一人もいなくなっているという。姐さんらの噂話を横で聞きながら、どうりでいつもは出てこない桜坂の主人まで表に出てきていたのだ、と七坂は一人納得していた。足抜けとなれば追っても出ているはず。果たして逃げられるものか。
娼館といえど一生涯出られぬ檻ではない。少なくとも年季が明ければここを出ていくことはできる。それでもなお逃げようとする者は過去に少なくない。ここを生きて出る気のない七坂にとって、彼らの気持ちは理解できなかった。
「逃げた子がいるらしいね」
琥珀色の液体を傾けて喉に流し込むと、三上は言った。「耳が早いこと」と言えば「噂好きが多いのも良し悪しだな」と答える。
「お恥ずかしい話で御座います」
「なんの、誰だって逃げたいと思うのが道理というものじゃないか。俺は話したことはないが、元々何度か逃げ出したことのある者だったのだろう?」
「ええ」
梅落は七坂よりいくつか上、ここに来たのも少し先だった。逃げ出して折檻を受け、それでも懲りずに出奔すること数度。さすがに近頃はそんなこともなかったが、まだ諦めていなかったのだろうか。それにしても一緒に消えた男衆の方が七坂には意外だったが。
「ここにいる者のほとんどが望まない形で連れてこられたのだろう」
「左様ですね」
「ならばそれも仕方あるまい。君はそうではないのか」
「さて。ここから出て希望があるとは思えませぬ故」
「希望とは」
「私には身を売るしか能がありませぬ。奉公に出るには薹が立ちすぎておりますし、かと言って今さら商いを始めるほどの才もなく」
「身請けされればよいだろう。君なら引く手数多じゃないか」
「花の命は短いのです」
「ああなるほど。……君は、怖いのだな」
説明するだけ無駄であろうと、はてなんと誤魔化すかと考えていた七坂は三上の言葉に思考を止めた。
「怖い、ですか」
「この檻の外に出るのが」
「外に」
「君はこの店の誰よりも美しいが、それはこの中のことだ。いわばここは結界だ。外に出れば君はただの男に戻ってしまう。ただ美しいだけではいられない」
「それは……そうでしょう」
三上が調書でも読み上げるように淡々とした口調で続ける。
七坂はいつもの取り繕った態度を保てなくなっている。
「君は自由など少しも望んでいない。この結界の中で美しくあることが君の条理だ」
「……この結界の中にあっても、時間の流れは変わらない」
「そう、だから」
君は此処を出る気はないのだな。
七坂は目を閉じる。
そして開いた。
「そうだ。俺は一番綺麗な時のまま此処で死にたい」
取り繕うことをやめた七坂からは、感情の一切が抜け落ちたようだった。その貌は身を売ることを業としているという侮りを寄せ付けないほど壮絶に美しかった。
三上は知らぬうちに身震いする。
「忌々しくもこの身体は常に生き続けている。俺の意思に関係なくこの身体は俺を生かし続ける。しかも決して新しくはならないし、元にも戻らない。常に昨日よりも衰えていく。生き続けるということは老いるということだ。なんて」
悍ましい。
この身体の更新を止めることはできない。自分の意思とは関係のないところで代謝は繰り返されるのだ。
「明日の俺は、今の俺よりも劣っているだろう。そしてどこかでそれは目に見える状態で現れる。今はまだ大丈夫だとしてもそれが明日ではないと誰に言える?それが訪れることが俺は何よりも恐ろしい。貴方の言う通りだ。俺は美しく無くなることが何よりも怖い」
七坂が口を閉ざすと、座敷はしんと静まった。外からは客と男娼どもの嬌声が聞こえて来る。それはまるでこことは違う世界の出来事のようだった。
「……ならば俺が」
三上が何かを口にしかけた時だった。
唐突に襖が音を立てて世界が開いた。
「七坂!」
襟を乱した三郎が立っていた。結った髪が乱れている。
右手には包丁。
背後からは複数の男衆の声が追ってきており、そちらを見た三郎は舌打ちすると、ずかずかと座敷に乗り込んでくる。七坂の傍までくると、その姿勢のまま急に包丁を振り回した。
「危ないな」
振り回した包丁の軌道にいた三上がすっと身を引いた。三郎の目は血走っている。
「うるさい!」
ようやく男衆が集まってきて、座敷の入り口を塞いだ。座敷の真ん中に立っていた三郎は七坂の腕を取ると背後に回りその体を盾にする。首筋に冷たい感触があたる。周囲が響めいた。間近に見た白刃はよく切れそうに磨かれている。どこかの仕出し屋で下っ端をしていると言っていたから、店から持ち出したのかもしれない。
「来るな!殺すぞ!」
「君は七坂に惚れてるんじゃないのか」
「そうだ。だから俺がここから救い出すんだ」
「彼はそれを望んでいないと思うが」
三郎とは対称的に落ち着き払った三上が、三郎にというよりは七坂に向かって呟く。その態度がさらに三郎を逆上させる。
「うるさい!お前に何がわかる!」
「君には分かるのか」
「ここから出る方が幸せに決まってる!」
「さあて」
集まってきた男衆たちの後ろから女将の狂躁的な声が聞こえて来る。今ではこの桜坂で最も高価な商品である七坂に何かあれば困るからであろう。その興奮に当てられたように三郎がさらに声を上擦らせる。
「近づくな。近づけば殺す」
じりじりと壁沿いに移動しながら戸口に近づくと、捕らえようと動く包囲網に向かって包丁を突き出した。その隙を縫って廊下に飛び出すと、追ってくる男衆を牽制しながら七坂の頸に包丁を当てたまま階段を降りる。階下では騒ぎを聞きつけた客と店の者とが混ざり合って群衆を作っていた。刃物に怯える姐さんらの中に、憎らしげな視線を寄越す砂貝がいた。馴染みの客がいて、同僚たちがいる。その中を三郎は七坂を盾にしたまま逃げ出した。
「逃げるぞ」
店の外に出ると、三郎は七坂の腕を掴んだまま走り出した。
七坂がこの花街の門をくぐったのはまだ七つの頃だ。人買いの男に連れられて歩きながら、七坂はただ一心に前を見据えていた。ちょうど花街が賑わい始める夕暮れ時、艶やかな女や見世を揶揄って歩く男らには一切目もくれずに歩いた。たった七つにしかならない七坂はしかし己の運命を理解し、受け容れていたのだ。
この門をくぐることはもう二度とないと。
その門を男に手を引かれて走り抜ける。すれ違う人々が何事かと振り返って行ったが三郎は脇目も振らず駆けて行く。捕まればこの男はただでは済まないだろう。追い詰められて自分と共に逃げることができないと知ったならば、共に生きることができないと理解ったならば。
七坂の願いを叶えてくれるだろうか。
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