渇望

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「これは大変なことになったな」  平謝りする店の者に適当に手を振って追いやった三上は、隣で大仰に溜息をついた男に目をやった。店で何度か顔を合わせたことのある男で、三上とは対称的に旧時代然とした着物姿だったが、古臭さを感じさせない貫禄がある。三上は愛想良く「本当に」と返した。 「今日は七坂に会いにきたのだが」 「それは申し訳ないことをした。私の方が先だったようだ。まあどのみちこんなことになったのだが」 「そうだったのか……現場に居合わせたのは貴方だったか」 「ええ。災難でした」  店の番頭が金がどうとか言ってきたが、三上にとってそれは些細なことであり、どうでもよかった。むしろ面白い見世物でも見たような気分で、災難だったと言ったのはそのことではない。 「実はもう一度あの子を身請けしたいと話をしに来たのだ」 「ほう」 「一度断られたのに恥ずかしい話だが、どうしても諦めきれなくてね。今度は本人にではなく女将に話をしようと思っていたのだ」 「なるほど」  それで桜坂の女将はあれほど喚き立てていたのだと三上は合点がいった。大金が入ろうというところ、それがふいになったどころか商品そのものが盗まれてしまったのだからたまったものではないだろう。まして七坂はこの店で一番高価な品だったのだから。 「まさかこんな事になるとは……連れ戻されるだろうか」 「まあ彼はあんなふうに此処を出る事を望んではいないようでしたが」 「私ならば一生不自由はさせなかった」  まあそれさえも彼は望んでいないだろうとは口にしなかった。七坂は此処を生きて出るつもりはなかったのだろうから、連れ出すのがこの男だったとしても同じ事だろう。どちらかといえば、 「包丁を持っていたからな」 「ああ、七坂が刺されなかったことが幸いだったな」  全く別のことを口にした男に三上は、そうですねと嘘をついた。あの男も、そして心底惚れているらしいこの恰幅の良い商人も七坂の望みは叶えられないだろうと三上は知っていた。 「俺ならば叶えてやれたものを」  三上の言葉を聞き取れなかったらしい男が問い返すように顔を向けたが、それには「お互い災難でしたな」と答える。男は納得したように頷いた。全く災難だったとしか言いようがない。もう少しで美しい標本を手に入れることができたというのに。  三上は子供の頃から美しいものが好きだった。特に蝶が好きで、国外へ留学した時に昆虫標本の技法を知り収集を始めた。そしてさらに政府の役人となり、海外駐在期間中に死体をそのままの状態で保存する方法を知ったのだった。  存在しなくなっても誰も気に留めない人間というのはどこにも一定数いて、実験を行うには充分だった。駐在地が変わるたびに、その地で実験を重ねた。重ねた分だけ技術は上がった。ただ三上の眼鏡に叶う標本が見つからなかった。 「君はもう帰るのかね」 「ええ。此処にはもう用がありませんから」 「そうか。私も帰るとするかな」  三上にとって此処は七坂がいない以上、本当に用のない場所となった。上官に連れられて来たものの、男になど興味のなかった三上はしかし、七坂の美しさに心を奪われた。この男を蒐集(コレクション)したいと思った。 「次はいつ出逢えるだろうか」  あれほど美しいモノに。  海外とは違い、あまり実験を繰り返せばいつ足がつくとも限らない。実験体は全て遺棄しているが、状態が保存された遺体はあまりに目立ち過ぎる。華族の令嬢を攫ったのは流石にやり過ぎたかと思っていたのだが。しばらくは自重が必要だろう。遺体の一つが見つかってしまったこともある。 「生きて逢うことがあったら」  きっと俺が殺してあげよう。君が美しいままならば。  店の外に出ると冷たい風が吹き過ぎる。外はもう宵が深く、花街の盛りはこれからだ。賑わう往来の騒めきが、三上の独り言をかき消していった。 了
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