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名を捨てる
「お前の名前は三枝だ。三に枝でさえぐさ」
父親よりも上と見える桜坂の主人が、カン、と煙管を盆に打ち付けながら言った。それだけの面会のあと押されるように次の間へと出される。きつい顔をした中年の女――後で知ったところではこの店の女将だ――は三枝を襖の前に立たせると自分は数歩下がって値踏みするように眺めた。
「顔は悪くないが体は貧相だね」
それだけ言うと広げてあった着物の中から一枚、三枝の肩に掛けた。三枝の知らぬ、白い鳥の羽を休める図柄。
「浅雪」
女は襖を僅かに開け廊下に向かって誰かを呼んだ。しばらくすると襦袢を着ただけのほっそりした女が入ってきた。
「この小僧を頼んだよ」
それだけ言うと、浅雪と呼ばれた女が薄く頷くのを確認もせずに忙しなく部屋を出ていった。取り残された三枝は、手持ちぶさたになって女を見やる。
切れ長の目の縁がほんのりと赤い。化粧をしているようではないからもともとの肌が白いのだろう。うっすらと笑みを含んだ唇は薄い。きれいというよりは儚い雪のようだと三枝は思った。
「歳はいくつだ」
落ち着いた低い声だった。しかし不思議とその儚げな雰囲気に似合っている。
「十五、です」
久しぶりに言葉を発したからか、緊張していたせいか、喉が張り付いてうまく喋ることができなかった。しかしそれを笑うことなく女は続けた。
「ずいぶんと歳がいっているね。ここが何だかわかるか」
「はい」
三枝は家族のために売られた。もうすぐ来る冬も越せないほど貧窮していた三枝の家は子供を一人、手放すことにした。
「そうか。髪は伸びるのを待つしかしようがないな」
傍にあった化粧台の抽出から、手のひらよりひとまわり小さい貝殻を取り出す。
「肌は白いから紅は赤いものにしようか」
貝殻の内側を小指で撫でるとその細い指先に血のような赤色が付いた。それを三枝の唇になぞる。
「お前、名前は」
「貞吉」
「違う」
「……さえ、ぐさ」
「俺は浅雪だ。姐さんと、そう呼ぶんだ。ここではみんなそうだ」
そこで初めて目の前の女だと思っていた人が、男であることに三枝は気が付いた。それも当然のこと。そう、桜坂は男が身を売る店なのだから。
「今までの名前は忘れろ。桜坂の親父さんからもらった名が、俺たちの名だ」
あの人買いの男が三枝の生家を訪れた時、歳がいっているにも関わらず兄弟たちの中から三枝を選んだ。三枝は、あの寒村でも抜きん出てきれいな顔をしていた。三枝にしても、まだ年端もいかぬ弟や姉が連れていかれるよりましだと思った。
「……はい」
こうして三枝は、一度、名を捨てた。
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