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桐生
春雨の降る傘の下、男を見上げた横顔を今でも覚えている。
時代が変わり、諸外国の建築様式の家が挙って立ち並ぶその一画、そこいらの貴族よりもずっと上等で時代に逆行した屋敷を構える娼館「桜坂」の一室で、俺は柱に背を預け隣の部屋にいる雇主が事を終えるのを待っていた。
男なんざ抱く趣味はなかったし、金もない俺には無用な場所で何度目かの朝を迎えていた。この部屋と続きになっている隣の部屋だけが抱いている狭いが美しい庭には女の髪のように細い雨が静かに降り続けている。名前を知らない花が軒先で濡れていた。
隣の部屋から僅かに障子の音がして、俺は閉じていた目蓋を開けた。廊下へ出る音はしない。ふと庭に目を向けると傘を差した商家らしい身なりの男が立っていた。いつの間に、と驚いていると草を踏む音がして襦袢姿の女が現れた。
「浅雪……」
女を傘に入れた男が呟く。その名に聞き覚えがあった。
「与市殿」
囁いた声は穏やかに低い男の声。ここがどこだったかを思い出す。隣の部屋から聞こえた障子の開け閉ての音と、襦袢姿。そして聞き覚えのある名。そこに現れたのは雇主が異常なほどに執着を見せる男だった。
紅い襦袢から見える手首は男のものとは思えないほど白く細い。すんなりと伸びた指が傘を差し掛ける男の袖を掴んでいた。
情夫がいるとは、雇主は報われねえな。だが単なる用心棒の俺にはそれを知らせてやる義理もない。
柔らかい春雨の中、男は傘を持つ逆の手で軽く結われた髪を梳く。その手に細い指が触れる。触れ合うその一点のみ、抱き合うでもなくただ見つめ合うことほんの数刻。
二人はすっと視線を逸らせた。
その一瞬。不意にこちらに流されて交わす視線。伏せられた睫毛とその儚げな瞳の揺らぎ。俺はぬいとめられたように動けなくなった。
気のせいであったと思われるほど何事もなく俺から逸らされた視線はまた傘を差す男に戻される。庭を出ていくのを見送ると、紅い襦袢の男は雇主が眠るのであろう部屋に戻っていった。
「あんたを殺してほしいそうだ」
俺の雇主、鬼御門は。
あの日とは違い、長襦袢の上から女物の美しい打ち掛けをはおった男は自嘲気味に笑った。
「できれば楽に死なせてくれ」
醒めた目が俺を見る。抱かれるほどに堕ちていく鬼御門の妾どもの中で、この男だけが変わらなかった。
一番欲しかったものだけを得られなかったのだろう。あの男は。
「浅雪というのは本当の名か」
「いや、桜坂の店主に付けられたものだ」
少しの間をあけて男が答える。
「……本当の名はせつという。雪と書いてせつ。女みたいだろう。道を薄く覆う初雪の日に生まれたそうだ」
時代は移り変わり、俺たちの生きていた世界は様変わりして行く。ぼんやりと見つめる格子のはまった窓の外に見えるのは故郷か、己の半生を生きた娼館か、雇主か、それともあの男か。
「俺の名など誰も知らない」
「あの男もか」
あの春雨の中、傘を差していた男。
「そうだ」
立ち上がって浅雪の後ろに回ると短刀を抜いて細い首にあてがった。
鬼御門も、この男のもとに通ったどの客も、そして想い人であろうあの男すら知らないことを俺は知っている。
一度息を吐くと、項に唇をつけるのと同時に俺は一気に刀を滑らせた。
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