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簪の、落つる
「今日はずいぶんと難しい顔をしておいでだね」
問われた三枝が顔を上げると、落ち着いた雰囲気の男がこちらを見ていた。
「……そんなことは」
「君まで姐さんの真似をして憂いた顔をしなくても」
男が、きれいな青色の切子をぐっと呷って盆の上に置く。そのまま自分で注ぎ始めたのを見て、三枝は慌てて手を添えた。
「気にしなくていい。酒が飲めるだけで十分だから」
笑ってかわされて、行きどころのなくなった手を下ろす。座敷に呼ばれている浅雪が戻るまでとお酌をしていた三枝は、腑甲斐なさに密かにため息をこぼした。
こういうときに、己の出自の賤しさを思い知る。何度か姐さんの座敷に呼ばれたことがあったが、どうしたらいいのかわからなくて失敗したことが多々あった。
「浅雪のところはまだ長いんだろうね」
「もう、間もなくかと。お座敷に上がっているだけですから」
「君はまだ呼ばれないのかい」
君、などと上等の呼ばれ方などしたことの無かった三枝は、そのたびにくすぐったいような気持ちになる。
「……私は失敗ばかりするので」
「失敗などして当たり前だ。気にすることなどない」
「学が、なくて」
口にしたとたん顔にさあっと朱がかかる。当然のことがわからなくて、恥をかいたことも何度もあった。
思い出してしゅんと俯いていると。
「失礼をいたします」
襖がするすると静かに開いて、浅雪が美しい所作で床に手を付いた。それは三枝から見ても惚れ惚れする美しさだった。
「遅くなりました」
「浅雪」
楚々とした仕草で襖をしめ立ち上がると、浅雪はすこし間を空けて男――与市の隣に座った。その姐さんを見つめる眼差しも、名前を呼ぶ声も先ほど自分と話していたときとはまるで違う、そう三枝は思った。
「君のかわいいお嬢さんがお悩みのようだよ」
与市に水を向けられて三枝は慌てた。悩みなどと上等なものをもてるほど三枝は立派な身分ではない。もどかしくも首を振った。
「悩みだなんて……」
「三枝は頭がいいから考え過ぎる」
与市が置いた盃に酒を注ぎながら浅雪が言った。めったに考えていることを口にはしない浅雪の言葉に三枝はますます慌てた。
「わ、私は読み書きもできなくて」
「学があるのと、頭がいいのは別だよ」
与市が盃に口をつけてから下ろす。
「そうじゃないか、浅雪」
あるかなしかに口の端を上げた浅雪が、目を細めた。ほんのりと紅い目のふちが、雪に落とした花弁のようだと三枝は思った。
「声がよければ学などいらない、その程度のこと。私らのようなものには何か一つあればそれで十分」
朝方の夢のように儚いひとは、そう言って目を伏せた。まつ毛の影が頰にかかる。
「何か一つ、か。俺は君の何に惹かれてしまったんだろうね」
三枝はすっと奥の間の襖を開く。
立ち上がった与市は、野の花を手折るようにそうっと浅雪の手を取った。そして解くような声で名を呼んだ。
「あさゆき」
二人が奥の間に入ったところで襖を閉める。その刹那、ゆっくりと与市の手から簪の落ちていくのが見えた。
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