まぶたをひらく

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落ちる涙を追って  水差しを用意しておこうと部屋を出た三枝は、賑やかな廊下を抜ける。まだどこも宴が続いているようで、いっそおかしなほどに陽気なお囃子が止まない。情勢が不安な今、人々はこぞって花街に集まっていた。  狂ったように夜毎繰り返される酒宴。  ここは俗世を忘れるための別世界。  いつか向き合わねばならなくなったとき、ここに来るものはなくなるだろう。  時々すれ違う客や、姐さん方を廊下の隅でやり過ごしながら台所で水を汲むと、三枝は戻ろうとして勝手口の外から人の声が聞こえるのに気が付いた。男衆の誰かなのかと近づこうとして、何を言っているのか聞き取ってしまった三枝は足を止める。 「貞吉!」  声に憶えがある。ついこの間に聞いたばかりの、いやそれ以前よりあまりに耳に馴染みすぎた声に一瞬、眩暈がした。 「幹太(かんた)っ……」  三枝は倒れそうになるのを後ろへ足を引いてなんとか踏み止めた。  幹太は、三枝の幼なじみだった。生家のすぐ近くに住んでいて何かと言えば二人で遊んだ。子供の頃から白く女のようだった三枝は、他の子供らには仲間に入れてもらえなくて、兄弟以外ではただ幹太だけが三枝と一緒にいてくれた。  三枝は――貞吉は幹太が好きだった。 「貞吉!」  戸をどんどんと叩きながら、幹太はひたすらに三枝の捨てた名前を繰り返した。昔から、近所の子どもにいじめられていると助けに来てくれた少年。それは今でもまだ変わらないとでもいうように。 「貞吉!」  幹太が叩き続けている戸に掌を当てると振動が伝わってくる。この向こうに、二度と会えないと思っていた幹太がいる。  自分も彼も男であり、こんな思いを抱くのはおかしなことだと思っていた。村の女をめとり、子を成し、それが延々と続いていく。わかっていたけれど幹太の笑う顔が好きだった。ただ近くにいられるだけでよかった。 「幹太……」  最後の日、彼には別れも告げられなかった。懐かしい声に呼ばれて、三枝は引き戸に手をかける。この向こうに幹太がいる―――。 「よせ」  手首を掴まれた。  自分を掴む太い腕を辿って目線を上げると男衆の一人だった。厳しい顔で見下ろされて、三枝は引き戸から手を離した。 「絶対に顔を出すな」  息だけで囁くと、三枝がうなずく間もなくわずかに開けた戸の隙間からするりと出ていった。 「貞吉を返せよ!」  激しく抵抗しているのか地面に倒れるような音がする。三枝はそれを聞きながら背を向けた。この場を離れようと思うのに、足が一歩も進まない。また戸が叩かれる。 「貞吉!帰ろう!俺たちの村に」  とうとうあふれ出た涙が土間に落ちた。それを追うように、戸に背を付けたままずるずると座り込む。かつては触れたことも見たこともなかった上等の着物が汚れても、少しも気にならなかった。
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