21人が本棚に入れています
本棚に追加
幸福の記憶
「桜坂」でそのひとを見かけたのは三度目だった。いつも恰幅のよい商人風の男たちとつれだっていたが、座敷に呼ばれることはなかったためよくは知らない。
ただ廊下ですれ違っただけだった。
「浅雪と、申します」
顔を上げるとそのひとは、困った顔で座っていた。そしてその顔のまま口を開く。
「申し訳ないが、断りきれなかっただけなんだ」
「左様でございますか」
朱塗りの盆に置かれたギヤマンに冷酒をそそぐ。光を透すその色は奇麗な青。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
空になった杯を盆に戻し、また注ぐ。ゆらゆらと揺れる灯が表面を舐める。
「わたくしは、今宵一晩あなたのものでございます」
たとえ一夜のことであろうとも、それがここでの決まりごと。
「貴方様がこの一夜をどう過ごされようとも、思うがままに」
そのひとはしばらく考え込むと渡した酒を飲み干し、盆を引き寄せ同じように酒を注いだ。そしてこちらに掲げる。
「では酒に付き合ってくれないか。家では気兼ねで飲めなくて」
「わたくしでよければ喜んで。御名をお聞きしてもよろしいでしょうか」
そのひとは薄く笑むと言った。
「与市、と」
そうっと目を開けるとこちらを覗き込む与市殿と目が合った。柔らかいその顔は、ここしばらくですっかりと見慣れたもので。
「おはよう」
自分とは違う大きな手が髪を梳く。僅かに朝の光が障子を透かしている。
あれから与市殿が訪れるようになって何度目か。あの日、豪奢な布団の上で一晩酒を酌み交わし話をして、次の夜に体を合わせた。
「雨の音がする」
「今日は一日雨でしょうか」
「出たくないな」
呟いた与市殿が腕を回し、引き寄せられた。触れた素肌の体温が心地よい。
「このまま雨が止まなかったら、あなたは帰らないでしょうか」
引き寄せられた腕に更に力がこもる。
「帰れなくなるじゃないか」
「帰らないで」
「帰りたくないよ」
誰かに特別に想いをかけることはしてはならない。けれど、あなたのことが恋しくて、恋しくて仕方ない。
それがこんなに幸福なことだとは知らなかった。
「……もう少しこのままで」
「せめて雨が、止むまでは」
微笑んだあなたの顔がいとおしい。自分の灯火のような儚い人生に、こんな幸せがあるなんて。
「雨をこんなに望んだのは、初めてだ」
あなたの声と遠くに聞こえる雨の音が幸福の記憶となって、いつまでも耳に残った。
最初のコメントを投稿しよう!