ある男とそれに関わる三人の男にまつわる話

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幸福の記憶  「桜坂」でそのひとを見かけたのは三度目だった。いつも恰幅のよい商人風の男たちとつれだっていたが、座敷に呼ばれることはなかったためよくは知らない。  ただ廊下ですれ違っただけだった。 「浅雪と、申します」  顔を上げるとそのひとは、困った顔で座っていた。そしてその顔のまま口を開く。 「申し訳ないが、断りきれなかっただけなんだ」 「左様でございますか」  朱塗りの盆に置かれたギヤマンに冷酒をそそぐ。光を透すその色は奇麗な青。 「どうぞ」 「ああ、ありがとう」  空になった杯を盆に戻し、また注ぐ。ゆらゆらと揺れる灯が表面を舐める。 「わたくしは、今宵一晩あなたのものでございます」  たとえ一夜のことであろうとも、それがここでの決まりごと。 「貴方様がこの一夜をどう過ごされようとも、思うがままに」  そのひとはしばらく考え込むと渡した酒を飲み干し、盆を引き寄せ同じように酒を注いだ。そしてこちらに掲げる。 「では酒に付き合ってくれないか。家では気兼ねで飲めなくて」 「わたくしでよければ喜んで。御名をお聞きしてもよろしいでしょうか」 そのひとは薄く笑むと言った。 「与市、と」  そうっと目を開けるとこちらを覗き込む与市殿と目が合った。柔らかいその顔は、ここしばらくですっかりと見慣れたもので。 「おはよう」  自分とは違う大きな手が髪を梳く。僅かに朝の光が障子を透かしている。  あれから与市殿が訪れるようになって何度目か。あの日、豪奢な布団の上で一晩酒を酌み交わし話をして、次の夜に体を合わせた。 「雨の音がする」 「今日は一日雨でしょうか」 「出たくないな」  呟いた与市殿が腕を回し、引き寄せられた。触れた素肌の体温が心地よい。 「このまま雨が止まなかったら、あなたは帰らないでしょうか」  引き寄せられた腕に更に力がこもる。 「帰れなくなるじゃないか」 「帰らないで」 「帰りたくないよ」  誰かに特別に想いをかけることはしてはならない。けれど、あなたのことが恋しくて、恋しくて仕方ない。  それがこんなに幸福なことだとは知らなかった。 「……もう少しこのままで」 「せめて雨が、止むまでは」  微笑んだあなたの顔がいとおしい。自分の灯火のような儚い人生に、こんな幸せがあるなんて。 「雨をこんなに望んだのは、初めてだ」  あなたの声と遠くに聞こえる雨の音が幸福の記憶となって、いつまでも耳に残った。
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