ある男とそれに関わる三人の男にまつわる話

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願ふことは  すぐ同じ部屋にいるはずの女将の声が、ずいぶん遠くに聞こえた。喧騒の全てが別の部屋で起こっているように感じる。ただ身体中が燃えるように熱いことと、頬に触れる冷たい手だけが世界の全てだった。 「どうして」  呼ばれた気がして、あらがい難い力で閉じようとする目蓋をなんとか持ち上げる。普段からどこか儚げな顔が、さらに憂いを帯びてこちらを見下ろしていた。  ああ、そんな顔をしてほしいわけではない。 「……どうか」  自分でも驚くほど小さな声しか出なかった。聞き取ろうとしたのか、その憂愁のかんばせが近づく。懐かしいような、初めてのような、泣きたいほどいい匂いがした。 「どうか」  笑って。  俺はそのために生きているのだから。声が届いたのか、俺を覗き込んでいた浅雪は微かに笑んだ。  俺が生まれたのはここからはずっと離れたところにある寒村だった。兄と姉、弟と妹の間に挟まれた俺は、兄たちのように田畑を耕して暮らすのも、弟たちのように自然の中で駆け回って遊ぶのも嫌で、十三まで暮らした村を飛び出した。以来、一度も親にも兄弟にも会っていない。  俺はとりとめもなくそんなことを話した。そんな話をしたのはあとにも先にも浅雪だけだった。 「道の端で唄って小金を稼いでいた。十五で親父に拾われるまで塵同然だった」  静かに聞いていた浅雪は、そうか、と一言だけ呟いた。 「唄ってくれないか。お前の唄が好きだ」  しどけなく窓辺に肘をついて座る浅雪が言って、俺は三味線を取る。 「姉さんは唄がへたな人で、俺は代わりによく弟らにうたった。でも一番喜んでいたのは姉さんだったな」  俺は唄の合間に自分の話をする。話しだすと一番思い出すのは姉のことだった。そういえば、姉とこの男は不思議と雰囲気が似通っている、と思う。 「姉さんもよく唄ってくれと言ったな」  恋しい恋しいと俺は唄う。恋しいあなたに会うために雪の一片になってあなたに触れましょう。 「俺の唄を好きだと言ってくれたのは、姉さんと」  あんただけだ。  ゆるりと振り向いた浅雪が俺の唄に目を細める。 「お前の唄が好きだよ」  その言葉だけで俺は唄い続けることができる。あんたがなぜこの唄を好きか知っていても、俺は構いはしない。あんたが一時でも安らげるというならば、俺は唄い続けるだけだ。  たとえ俺の向こうに、いとしい男が見えているのだとしても。  騒ぎが起きたのは宵の口だった。桜坂の男衆である俺は、障子が破れる音がして、その方角に走った。  其処此処から顔を出す客らを尻目に俺は走る。その突き当たり、一番広く上等な客を入れる座敷に面した廊下に、浅雪は背を壁に付け倒れていた。  襟が崩れている。その着物の赤に紛れてわからないが、そこに触れていた手が。 「お前が悪い」  刀を持った男がぬらりと座敷から出てくる。落ち着き払っている男はしかし、浅雪しか見ていない。背後で誰かが鬼御門だ、と呟いた。  刃先からたらりと、血。 「俺のものにならねえお前が悪いだろう」  男が刀を持った手をかざす。捲れあがった二の腕には般若が描かれている。浅雪は静かに男を見返している。 「死ぬか」  何も答えない浅雪が目蓋を伏せる。男は刀を振り下ろす。周りからは悲鳴が。  俺は。 「清吉!」  振り下ろされた刀はちょうど心臓の上を滑って通過した。血が吹き出すのを自分で見た。 「だれか」  浅雪の声がする。そのいつもにはない切迫した声を聞きながら、俺は体勢を保てず滑るように倒れる。その背を支えられた。 「清吉」  周りの喧騒が遠い。男はどうしたのか、それを確かめたいのに体は動かない。ただ身体が燃えるように熱いことと、頬に触れる冷たい手だけが世界の全てだった。 「どうして」  普段からどこか儚げな顔が、さらに憂いを帯びてこちらを見下ろしていた。  ああ、そんな顔をしてほしいわけではない。 「どうか」  どうしてと聞かれてもよくわからない。姉と似ていたあんたに親しみを感じていたのか、それとも浅雪という男に惹かれていたのか。ただ俺は。 「どうか」  君よ、笑って。  あんたが笑っているためならば、この身が消えて無くなっても構わない。一時でも長く、あんたが笑っているためならば。 「清吉」  柔らかに俺を呼ぶ声と、儚い笑みを見た。俺の望んだとおりに。  そして今まで触れたことのないような温かいものが頬に落ちて伝っていったが、それが何か確かめる前に、俺は深く安らかな眠りに落ちていった。
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