ある男とそれに関わる三人の男にまつわる話

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ある男とそれに関わる三人の男にまつわる話

与市(よいち) 「身請けされることになりました」  あなたに会うのもこれが最後です。そう言って浅雪(あさゆき)は薄く笑んだ。  夕暮れの紅が障子を染めている。外から聞こえる喧しい笑い声と、この娼館のどこかで鳴っている陽気なお囃子が部屋の静けさを際立たせていた。  俺は最後という言葉に戦慄する。 「だから私ではなく別の者があなたに付くはずでしたが、無理を言って主人には内緒で代わってもらいました」 「最後だからか」 「別れを言うために」  伏せた睫毛が繊細な影を作る。特別に美しいわけではないこの男が、それでも少なくない客を持っているのはこの儚さ故だろう。強く、惹かれる。 「鬼御門か」  浅雪の元に通いつめていた客は、金のない農夫から自分のような町民、貴族から果ては政界の重鎮まで幅広かった。  その中でも特に有名なのが鬼御門という極道の男で、一代で財を成し表にも裏にも力を持っていた。 「一等地に家が建つほどの額だそうです」  あの男の浅雪への執着は異常だった。例えば、浅雪の肌に刀傷をつけた一件も尋常ではない執着心の表れといえた。  あれは異常だ。その外道のものになってしまうというのか。 「あんな男の」 「私に意思はありません。買われたからにはただの商品です」 「心は残してくれないのか」 「心を残せば死んでしまいます」  何よりもいとおしんだ静かな笑みが俺を見つめる。 「私は不幸でした」  細い、体。 「泥に塗れて生まれ、二束三文で親に捨てられ、数多の男に嬲られて生きてきました」  少しかすれた声。 「このまま死ぬのだと思っていたらあなたに会えた」  儚い、まなざし。 「人は一度でも誰かを想い、誰かに想われた記憶があれば幸せだと言えるのですね」  どれか一つでいいからこの手の中に残していって欲しい。 「浅雪」  気が付けばすっかりと日の落ちた外は静かで、ただ秋の虫が鳴いている。俺はそっと浅雪を抱き寄せた。 「お前は何を言っているのかと思うかもしれないが、俺は決して己を幸せとは思えない。押しつけられた家を背負い、好いてもいない女をめとり、その女との子を大切に思う」  愚かなことを言っているという自覚はある。だから、他人からは羨まれるそれは贅沢だと口にすることもできない。 「お前に出逢い、心から幸せであってほしいと思ったし、俺の手で幸せにしたいと思った。そんなことは初めてで……」  腕の中で体が震える。 「逃げよう」  俺は何もかも捨ててもいいと思った。  浅雪の顔が埋められた箇所に熱が籠もる。 「浅雪」  俺の言葉を遮るように、浅雪の薄い唇が耳に触れる。 「あなたが欲しい。このまま時が止まればいい。今すぐあなたに腕を引かれて遠くへ行きたい。どうせ逃げられないなら今ここであなたに殺されて死んでしまいたい」  縋るような着物を掴む手と、声が震えている。しかしほんの一時の後、顔を上げた浅雪はいつもの静けさを湛えていた。もう声は震えてはいなかった。 「これでさようならです。朝がくればあなたはここを去る。どうかお体に気をつけてご自愛なさって下さい」  穏やかな笑みが断固としてこれ以上近づくことを許していない。本当の別れを知った。 「浅雪……」 「最後に一つだけ我儘を言わせてください」  はにかむような、切ないような顔で俺を見つめる。 「どうかここには二度と来ないでください。奥方を除いては、どうか私以外の誰も抱いたりしないでください。お願いです……」  頼りないその体を、俺は引き寄せることはしなかった。ただ頷くことだけで、生涯たった一人を想い続けることを密かに誓った。  僅かに開いた障子から差し込む朝日が、空になった腕の中を照らしている。  朝焼けが眩しくて、俺は美しく残酷な朝をただ睨んだ。
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