プロローグ

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 ◇◇◇  「ありがとうございました」  「ありがとうね~、朱音ちゃん」  その姿が見えなくなるまで頭を深々と下げて見送る。顔を上げて中の時計を見ると、ちょうど長針が左にカチリと動いた。20時、閉店の時間だ。手書き看板を回収して店内に戻る。  「つっかれたぁ……」  「お疲れ様、朱音ちゃん。今日は一段とお客様がいらっしゃったね」  「なんか近所の小学校が開校記念日でお休みだったみたいですよ……どうりで今日は元気な子が多かった……」  うちのような地元密着型の美容室だと、こういうことはよく起こる。  「さ、後片付けしちゃおっか。椿(つばき)君、掃除お願いね」  「は、はい、了解です、オーナー」  椿と呼ばれた彼はシャキッと動き出した。やっぱり朝にはとことん弱いタイプなのか。昼間の雑用時にはフラフラしていた足取りも、今となってはしっかりしている。それにしても限度ってものがある気もするが……だがしかし、ぼーっとしているように見えても仕事は丁寧なのであんまり表立って文句は言えない。それに昼の時間は忙しいし、朱音が彼に構っている余裕がないのもある。しかも、富貴さんが彼に対して何も言わず、ただにこにこ見守っているだけなので朱音も口をすぼめざるをえないのだ。  彼の名前は桐ヶ谷 椿(きりがや つばき)。1週間前に現れた気に食わない新入りアシスタントとは彼のことだ。朱音と同じく富貴さんとの伝手でここに勤めるようになったらしい。  美容師の言うアシスタントとは、資格は持っているが、まだなにかしらお客様に提供できないクオリティのものがある、と言った意味で、端的に言えば下積み時代。この下積み時代を抜け、責任者 (Fukiならオーナーの富貴さん) に認められるとスタイリストと呼び名が変わり、全ての業務を一人で行えるようになる。要は一人前になる、ということだ。  最近来たばかりで何の技術が未熟なのかは知らないが、朝に弱いところとか、どんくさいところとか、すぐにどもるところとか、技術面以外に目を覆いたくなる部分がかなりあるので、まぁそういうところも含めて、アシスタントなのかもしれない。  にしても富貴さんもよく彼を雇ったものだ、と思う。一般的に美容師は薄給だ。一人前のスタイリストになったところで、そう言われるのだから、補助役のアシスタントなんてそれ以上だろう。(そもそもアシスタントからスタイリストになるまでに辞めていくものも多い) こんな小さな店ではお金の問題は大手サロンよりよっぽど切迫しているはずなのだ。  朱音はスタイリストとしての実績があったから辛うじて雇ってもらえたようなものの、桐ヶ谷は見たところ専門学校から出てきたばかりに見える。「人は見かけによらない」と言った手前、気は引けるが、見かけだけ見れば、10代後半、高校生だ、と言われても納得してしまう気がする。  細くてさらりとした髪、それと同じほど細身の身体、背は私よりちょっと高いくらいだろうか。そしてその身体の華奢さと同じくらい、彼は繊細な顔立ちをしていた。  (サロンの人間関係にでもやられたかな……)  美容師は例え有名なサロンに雇ってもらったとしても、それですべてが順風満帆なわけではない。先ほども言ったように薄給だったり、アシスタントとして2~6年ほどはプライベートを削って修行の日々だったり。忙しい場合、休憩がないなどザラにある。基本立ち仕事だし。家に帰ったら足がパンパンにむくんでいた、というのもよくある話だ。  さらにサロンという狭い世界での人間関係はよく拗れる。お客様との関係、先輩スタイリストとの関係、同僚アシスタントとの関係………そういう人間関係に耐え切れずに辞めていった同僚を何人か知っている。  ま、ちゃんと話したことはないけど!というか、そんな個人の事情、聞いたところで何になるわけでもないし、自分だったらそんな事情に積極的には触れて欲しくない。  だが、どんな事情があるにせよ、朝が弱いところとか、人前に立つとすぐどもるところとか、一言くらい富貴さんは苦言を呈してくれてもいいじゃないか!
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