♯1 ビター リグレット

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「さっき外で二人して喋ってたの、あれ農学部の市ヶ谷くんだろ? 彼、有名人だからさ、すぐ分かったよ」 浬が? 「有名って……どういう」 「見た目は爽やかなのに性格が男らしくて、うちの学部の女子はきゃあきゃあ言ってるよ? 登山して写真撮って、おまけにその写真が新聞にも載ったくらい、才能もあるってことだし」 「写真って?」 「あれ、住野くん、去年の学祭で農学部のブース行かなかった? 市ヶ谷くんが撮影した花がパネルで展示されててさぁ、めちゃくちゃ綺麗だったよ。白い花がさ、透けてんの。撮影した場所が、本来その花は咲かないはずの環境だったらしくて、それで新聞に取り上げられて────」 俺の知ってる浬は、中学で止まったまま。 思い出の中でただ、朽ちていけばいいと思っていた。 それなのに、こうして嬉々として浬のことを喋る倉橋を羨んでる。 ああ、気持ち悪い。 自分の思考が、また、吐き気を催す。 「す、住野くん、どしたの……顔真っ青じゃん」 「悪い、ちょっと気持ち悪くて」 「ええっ、大丈夫? 俺がベラベラ喋り過ぎたせいだ。ほんとごめん!」 「倉橋のせいじゃないって」 ソファの背に体を預けながら、水を口に含む。 細胞の隙間に浸み込む水分が、心の隙間も満たしてくれたら、なんて。 浬に再会したせいで、頭の中が無意味な一色に染まっていく。惨めで、虚しいだけ。 「倉橋、そろそろ行こっか」 「ほんとに大丈夫?」 「へーき。早めに帰って寝るし」 「風呂入ったら、ちゃんと髪乾かすんだぞ。あと、あったかくして寝ろよ」 「倉橋、母さんみたい」 「うん、よく言われる」 頼むから、この気持ちも。 思い出も、全部。 寝たら消えてくれ。
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