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小瓶と君とクマっくま
「お休み中のところ申し訳ありません。乗車券を拝見いたします」
「乗車券? え、なんのことですか? というか、えと……え?」
トントン、と肩を控えめに叩かれ、目を開ければ、見たことの無い景色と、見たことのない服をきた人が目の前に立っている。
「え、あれ? 私、いつものに乗ったのに、なんで」
「いつもの、ですか?」
私の言った言葉に目の前の人が、きょとん、と不思議な表情を浮かべている。
艶のある紺色の生地に、金色のライン、それから、ところどころにあしらわれた銀色の米印の柄。
なんだか、高級ホテルの制服みたい。泊まったことないけど。
そんな風に考えると同時に、もう一つの事実に気が付き、「あ!!」と思わず大きな声が口から溢れる。
「あ、あわっ、すみません、すぐ、すぐ降ります!」
「あ、お客様」
「すみません、わざとじゃなかったんです、すみません、すみませんっ」
カバンを掴み、バッと立ち上がるものの、ぐらりと揺れた視界に、交互に踏み出すつもりだった足が止まった。
「大丈夫ですか?」
「す、すみません……」
「ひとまずはお座りになってください」
そっ、と私の肩を上から押しながら、制服の人が言う。
「すみません……」
「ご気分はいかがですか? 頭がぐらぐらする、ですとか、気分が悪い、ですとか」
「あ、いえ……至って健康みたいです……」
ガタゴトと座席は微かな振動だけを伝えてくる。
そんな揺れの少ない車両の通路に立つ制服の人は、ぼそぼそと呟くように言った私を見て「それは何よりです」と微笑む。
「あ、でもその……強いて言えば……」
「強いて言えば?」
「この電車に、ここに座った記憶が本当になくて……その……いつもの通勤の電車で、うとうとしちゃって……気がついたらここにいて……」
毎日のように、到底、処理しきれるわけのない仕事量を先輩たちに押し付けられ。
期限内に仕上がったとしても、提出名は先輩たちの名前で、自分の仕事の成果にはならず。
その上、先輩たちからの仕事に押され、本来の自分の仕事が期限とほぼ同時刻になったり、期限をすぎてしまったりして、上司には怒鳴られる。
いつもなら終電ギリギリで帰るのを、今日、この時間に帰れたのは、あまりにも顔色が悪く見苦しいからという理由だったけれど。
正直、あの場所から出られて、空がオレンジ色になりかけている時間に帰れて心底ホッとしている。
「……すみません……」
最近は、もっぱら口癖のように口をついて出てくる謝罪の言葉。
自分は悪くないのに。
そう思っていたのは、最初の数ヶ月だけで、今はもう、何をどうしたらいいのかすら、分からずにいる。
「おやおや」
深い息を吐きかけた瞬間、聞こえてきた声に、飛んでいきそうになっていた意識が戻ってくる。
「あ、ああああ。えと、あのっ、あ、お金! お金、払います。どなたかがここに座る予定だったんですよね? すみません、今すぐに退きます」
「ああ、その件なのですが」
「あ、おいくらですか? あ、あわわ、そんなに手持ちないや、カード、カードは使えますか?」
「カードは使いませんね、お客様の場合は」
「え、あ、じゃあ」
「ワタクシ共が欲しいのは、そちらの小瓶です」
「小瓶?」
「ええ」
白い手袋をはめ指先をつけた手が、私のカバンをさし示す。
「カバンの中?」
そんなもの、入れた覚えがないけれど。
そう考えながら制服の人を見れば、彼がにこりと笑う。
「いえ、お客様はお持ちですよ? 失礼ながら、お客様のお持ちのカバンの中にございます」
「え?」
何それ?
そう言われ、肩からかけていた通勤カバンを開けば、見たことのない小瓶が入っている。
「何これ」
ネットとかでしか見たことのないような、小さな小瓶。
香水瓶のような、インク瓶のような。
どこかのお洒落な雑貨屋さんとか、カフェとかにさり気なく置いて有りそうな、そんな。
そう思うものの、すぐに、ああ、違う。これは、見たことがあると頭の中で自分の声が響く。
「これ、ずっと前に、一緒にでかけた時に見てたやつ……」
社会人になる前。私が一人暮らしをする前。
お互いに忙しくなったら、しばらく会えなくなっちゃうね。なんて言って、何かにつけて遊びにでかけていた時に、彼女が見ていた、小さな小さな小瓶。
お店に飾られていたそれをあの子が見つけた時、星のカケラでも降ってきているみたいに、彼女の周りがキラキラしているように見えた。
「なんで、あれがココに……?」
わけも分からずに、恐る恐る取り出してみれば、少しだけくすんだガラス越しに、何かが、入っているのが見える。
コロコロと掌のうえで転がしてみれば、水色、黄色、紫色に、オレンジ色。
光を通しているのか、やけに眩しい色合いのようにも見える。
そんな中に入っている何かの、たくさんの色が、写っては消えていく。
なんだか楽しそうだ。
それに、なんだか見たことのある、もの。
温かい。懐かしい。好き。
そんなどことなく感じる懐かしさに、万華鏡みたいだと思うのも束の間、色とりどりだった視界に、濃い赤色や、薄暗い灰色、電気の消えた夜の色のような、ものが入り込んでくる。
飲み込まれてしまうような。
肺の中が重たくなっていくような。
冷たい。暗い。怖い。嫌い。
「……っ」
ひゅっ、と喉が鳴った気がする。
見ていられなくなって思わず瓶から目を離せば、「お客様」と穏やかな声が耳に響く。
「あ……」
制服の人。
抽象的な言葉しか出てこなかったけれど、なぜだか彼を見て、妙な安堵感に包まれる。
「ありましたでしょう? 乗車券」
「え、あ、はい」
ツイ、と白の手袋の指先が、小瓶に触れる。
「乗車券を拝見しても?」
「あ、どう、ぞ」
にこり、と合わさった視線に思わず頷けば、白い手袋がゆっくりと手のひらを向けてくる。
その手のひらに、トン、と小瓶を置きながら、制服の人を見やれば、なぜだろうか。彼は不思議そうな表情を浮かべている。
「よろしいのですか?」
「え?」
「すべてを渡してしまって、よろしいのですか?」
「えっと……どういう……」
「あ、少しお待ち下さい」
首を傾げながら問いかけてきた制服の人の、言葉の意味がわからずに、そのまま彼を見上げていれば、彼が片方の手のひらを私にむけたあと、自身の片耳を抑える。
「ええ、ああ、はい。成程。かしこまりました。ええ、そのように」
誰と話しているのだろう。
少しだけ頷きながら話す制服の人をただ静かに眺める。
さっきも思ったのだけれど、彼の少し独特な声色が、なんだかやけに心地良い音のように思える。それに、この座席。とてもフカフカで触り心地もよくて。そのせいか収まったはずの眠気がまた思考能力を奪っていく。
時折、「ですが」とか「またですか?」とか、なんだか不満そうな声色も聞こえてくるけれど、それすらもリラックス効果があるのかもしれない。
「お客様」
「……なん、ですか?」
「失礼。やはり一部だけをお預かりするようです」
「一部、だけ?」
「ええ。ですので、一部分だけ、頂戴いたしますね」
そう言った制服の人が、手のひらに乗っていた小瓶の蓋に触れる。
きゅぽ、と小気味いい音がした。
その瞬間。
ー 「えー、またやらかしたのー?」
ー 「え、そんなこと言ってアンタだっていっつも押し付けてんじゃん」
ー 「まあねー。本当、便利よねー何も言い返してこないし」
「ひっ」
バッ、と耳を抑える。
聞きたくない声、聞きたくない音。こびりついて消えない、笑い声、化粧品の、匂い。
帰る寸前に聞いた、あの人たちあの会話。
ついさっきまで、忘れていたはずなのに、どうして。
なんで。
耳を塞ぎ、目をぎゅっ、と閉じても、聞こえてくる、声。
ー 「課長もストレス発散のはけ口にしてるよねー」
ー 「無能なくせにねー」
ー 「言えてるー! あ、ねえねえ、そういやさ、明日、営業三課と合コンやるんだけど人足りなくなっちゃってさあ」
ー 「えー行きたいー!」
ー 「え、でもアンタ、仕事溜まってんじゃん」
ー 「大丈夫だいじょーぶ。どうせ明日にはアイツ出社してくるんだし」
ー 「ほどほどにしないとバレるよ?」
ー 「大丈夫だいじょおぶ。あの課でアイツの味方するやつなんて、誰も居ないんだし」
嫌だ。イヤだ。いやだ。
聞きたくない。何も、考えたくない。
聞かせないで、もう、無理だよ。
これ以上は、もう。
ー 「 」
ぶんぶん、と嫌な声を振り払うように頭を振った時、ふいに、聞き覚えのある声がした。
ー 「 」
「っ?!」
ばっ、と顔をあげ、あたりを見ても、彼女の姿は見えない。
「いま、声が、え……あ、れ……?」
見えるのは、変わらずにそこに立っている、制服の人の姿。
変わらずに、小瓶を白い手袋の手のひらにのせている姿。
「おかえりなさいませ。見事に、ちょうど、でしたね」
そう言った彼が、小瓶の蓋をしめる。
「ちょう、ど……?」
力の入らないまま、彼を見上げれば、制服の人がにこり、と笑う。
「ええ、ちょうど、です。これ以上は、ワタクシ共が頂戴しすぎになりますので」
「……なんの、話、ですか……?」
「対価のお話ですよ。与えすぎず、もらいすぎず、が鉄則ですので。本来ですとこれだけでは足りませんが、不足分は、どうやらお連れ様がお支払いしてくださった、とのことですので」
「つれ……?」
「ええ、お連れ様、ですよ」
そう言った制服の人の手が、私の正面を指し示す。
そこにあるのは、一体の、小麦色のくまのぬいぐるみ。
青いストライプのリボンを首に巻いた、一体のぬいぐるみ。
「あのくまは」
私が、昔。
くまに手を伸ばそうと立ち上がりかけた時、「対価ですね」と、彼の声が響く。
「対価……?」
「はい。ご乗車分の対価として、持ち主のかたから頂戴いたしました」
「待っ、待ってください。持ち主って。あれは、あのくまは私があの子に」
「持ち主のかたは、本当にあなたの事を大切に思っていらっしゃるのですねぇ。あなたのためなら、とどんどんと課金をされようとするので、係員が焦っていたようですよ?」
「え……課金?」
「ですから、ほら。早く帰って差し上げてください」
そう言って、制服の人が私の肩をトン、と控えめに押す。
「帰るって、どこ、に」
ただ軽く肩を下に押されただけ。
ただ静かに椅子に座らされただけ。
それなのに、あがらえないほどの、唐突な眠気が、思考を奪っていく。
「この子の持ち主だったかたが待つ、世界へ、ですよ」
ひらひら、と制服の人が抱えたくまのぬいぐるみの手が振られる。
「ご乗車、ありがとうございました。出来れば、うんと先まで、お会いすることがありませんよう」
さっきまで見ていたはずなのに、ぼやけて分からなくなった彼の口元が、静かに弧を描いたような、そんな気がした。
目の奥が熱い。
「な、んで」
泣いている。そう理解した時には、もう、ボロボロと涙がこぼれてくる。
人の少ないいつもの電車内。窓の外は、いつもと同じ、流れていく景色。
誰もが他人を気にすることなどなく、私の涙に気がつく人もいない。
そのことに、静かにホッと息をはき、ハンカチを取ろうとカバンに手を入れる。
どうやら、眠りながら泣いてしまったらしい。
家じゃないんだし、と自分の涙腺にほんの少し呆れながらハンカチを取り出して、ふと、指先に冷たさを感じる。
「なんだろ?」
頬にハンカチを当てたまま、冷たさの正体を取り出して、思わず動きが止まる。
「これ、さっきの」
そう呟くと同時に、さっき? さっきって何? と自分の発言に首をかしげる。
「どしたの?」
「あ、いやさ、これ、何かやけに見覚えがあるっていうか」
「ふうん? あ、ねえ、何か入ってる」
「何か? 何かってなに、っていうか何?! なんで居るの?!」
「わ、声大きいよ」
「っ!!」
「危ないなぁ、落ちたら割れちゃうよ」
「ーーっ?!」
ばっ、と慌てて口を塞いで隣を見れば、「えへへー」と彼女が笑う。
「もー全然へんじくれないんだもん。だから会いたくて来ちゃったっ」
「は?」
「あ、ちなみに、今日、このままお家に帰らないで旅に出ます」
「はあ?! 何言ってっ」
「声、声大きいっ」
むぎゅ、と私の口にハンカチを押し付けて、大きな声を出させた張本人が笑う。
「あんた何言ってんの? 私、明日も仕事あるんだけど?!!」
こそこそこそ、と小さな声で詰め寄るものの、「あ、それなんだけどね」と彼女は口を開く。
「問題なくおやすみできるから心配は不要です!」
「不要って、何、どういう」
「キミのお姉ちゃんのフリをして、キミの明日からの一週間のおやすみを強奪しました!」
「……ごめん、ちょっと何言ってるのか分かんない」
頭がくらくらとしてきそうな事を平然と言ってのける彼女に、額を抑えながら、片手をあげて、牽制を迫る。
「だーかーらー。もう無理してあの会社に行かなくていいんだよ、ってこと」
「そんなこと言ったって、働かなきゃ生きていけな」
「でも心をガリガリに削られてまであそこに居る必要なくない?」
「……それ、は……」
「まだまだ人生長いのに、あそこだけに囚われるなんて勿体ないって」
あっけらかん、と。
造作の無いことのように、彼女の口から出た言葉に、喉のあたりに熱が走る。
「他人事だからって、そんな簡単に言わないでよ」
顔も見ずに自身の言った言葉に、吐き気がする。
自分で放った言葉なくせに。
一度言ったら、言葉は消せないと、知っているくせに。
苛立ちと自己嫌悪に、そのまま黙り込んだ私の手に、きゅ、と外から圧力がかかる。
「簡単に言ってないよ」
その声は、いつもと同じ。
けれど、いつもよりも、硬い。
「っごめ」
下がっていた視線を、ばっ、とあげ、彼女を見やれば、何やら満面の笑みを浮かべた彼女が、視界にうつる。
「だからね、君が再就職できるまでの間、君を養えるくらいに稼いでおいたよ!」
「……はい?」
「えー? 伝わらなかったー? もう一回言おうかー? だからぁ、わたしがしばらく君を養うからぁ」
「わ、分かった。分かったから、ちょっと一旦黙って」
「むー」
不満そうに唇を尖らせる彼女を、掴まれていないほうの手でぺしっ、と軽く叩く。
「養う養わないの話は、別に大丈夫。お金は全然使えなかったから、私も貯金はじゅうぶんあるから。っていうか、聞きたいのはそこじゃなくて。なんでそこまで」
言いかけて、ふいにさっきから彼女が握っている小瓶の存在を思い出す。
「ねえ、そう言えば、その小瓶」
「あ、これ?」
「そう。あ、ねえ、ずっと前に誕生日にあげたあのくま、どうしてる?」
「あー、あのくまねぇ。知りたい?」
「知りたい」
じっ、とまっすぐに自分を見る彼女を見返せば、少しの沈黙のあと、彼女はくすくすと笑う。
「実はね、あのクマっくまはーー……」
こそこそと私の耳に手を当てて話し始めた彼女の言葉は、「はあー?」と思わずあきれてしまう言葉だったけれど。
「でもいいの。君が、ちゃんと帰ってきたから」
クマっくまのおかげだね。
そう言って、彼女は笑う。
そんな彼女の笑顔と、声に、また涙が零れそうになって。
ぶん、と首を横に振り、車内の外へと視線を動かした時。
窓にうつる広い空は、かすかに残る昼間の青と夕焼けのオレンジ、それからこのあと訪れる夕闇の紫が混ざった色をしている。
「人生、立ち止まることも必要でしょ?」
ぽす、と肩にあたった重さの持ち主が、離れていた私の手に、なにかを置く。
「美味しーもの食べてー、あったかーい温泉に入ってー、あ、あとね、美術館も行きたいしー、水族館も行きたいかなぁ」
もう片方の手で、指折り数えながら、あれもこれも、と言葉を続け、「聞いてる?」と問いかけてくる彼女に、「はいはい」と答えながら、私もまた、首を傾げ、寄りかかる。
「あ、宿でお酒のむ。お酒」
「浴衣で道も歩いちゃったり?」
「食べ歩きもしちゃったり」
「お、いいねぇ、いいねぇ、その調子」
けらけらと彼女が笑うたびに、彼女の頭に寄りかかる自分も揺れる。
たかがそれだけのことなのに。
きゅう、と胸を締め付けられるような、大きな声で泣き叫びたいような、そんな気持ちにすらなって。
彼女に、手のひらに置かれた、ひとつの小さな空っぽの瓶を、私はぎゅっ、と握りしめる。
それは、ある仕事終わりの日。
少し不思議で、すごく柔らかな出来事。
ある日の暮れ方。とある列車の車内にて。
私は、この日の夕空を、ずっと忘れずにいたいと、絶対に忘れずにいようと、そう思った。
完
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