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到着したバーはオシャレで、かつ高そうだ。まさに大人の社交場。
車を降りて中に入るとまず足音がしない。毛足の長い絨毯が音を吸収している。
「いらっしゃいませ」
程よく暗い店内のオープンスペース。カウンターと、ボックスとが配置された空間には数人の客が入っている。
出迎えた黒服の店員に名前を告げるととても丁寧にお辞儀をされ、店の奥へと案内される。どうやらオープンスペースの奥は個室になっているようで、そこへ続く通路には店員が立っていた。
普段の俺ならきっと浮いていた。けれど今の俺はこの空間にも馴染んでいる。背を真っ直ぐに正して進んだその先、「VIP」と書かれた扉の前で店員は止まり、ドアをノックした。
「お客様がお見えです」
「入ってもらえ」
知っている声よりも少し低く、硬く、元気がない。
店員が俺に道を譲り、俺はドアを押し開けた。
中はそれほど大きくはないが、上等な革張りのソファーセットに調度品がある。そこの一つに座っていた野瀬が俺を見て目を丸くして思わず立ち上がり、ドアとは違う方向に逃げようとした。おいおい、そっちに何があるんだ。
「逃げんな野瀬!」
「!」
俺の声にビクリと震えて足を止めた野瀬の顔は僅かに赤い。そしてそれ以上にアワアワしている。悪戯のバレたガキじゃないんだ、落ち着けっての。
「まずは座れ」
声を抑えた俺が伝えると、野瀬はろそろと控えめに座るが……プルプルしている。
なにこいつ、怒られるとか思ってるわけ? ってか、怒られ待ちにしてもその反応は子供だろう。今時小学校高学年でもこんな待てしないっての。
ザワザワする。野瀬は十分大人で、決して可愛いとは言えないのに、今の俺には可愛く映る。そう見えている事がそもそもヤバい気がして踏みとどまるよう警報が鳴っている。こいつは元舎弟で、今は…………今は?
俺とこいつの今の関係は、なんだ? 知人? 常連客? 昔馴染み? どれもしっくりこないのは、どうしてなんだ?
「畑さん?」
「ん? あぁ……」
待てに耐えきれなくなった野瀬が声をかけてくる。俺はそれに答えて、正面のソファーに座った。
「ご注文は?」
「今はいい。後で」
「畏まりました」
一礼して去って行く店員。こういう時の声はボスっぽい。表情も締まる。にもかかわらず、二人になった途端にへにょっとするな!
「あの……怒ってますか?」
「はぁ? 何に怒るってんだ」
「あの……貴方の言いつけを破って雑魚を半殺しにしたので」
あいつら、二万円の代償が半殺しかよ。随分高く付いたな。
目の前の野瀬は肩も落としている。俺はそんなこいつを、怒ることなんてできやしなかった。
「怒らないよ。第一、オヤジからの仕事だろ」
「知ってたんですか?」
「お前がどうしてるか気になって、ちょっとな」
心配になったと、言わずに伝えた。伝わった野瀬は途端に恥ずかしそうな顔をした。なんだよそれ。
「……俺に怒られるのが怖くて、店に顔出さなくなったのか?」
聞くと、野瀬は黙って頷く。俺はと言えば「マジか……」という感じだった。
「あのなぁ!」
「だって、貴方に怒られるのが一番キツいんですよ」
そう言って、野瀬は俯いてしまった。
「貴方の言う事を聞いて様子見だけをしていたら。挑発になんて乗らなかったら。冷静で、いられたら……」
「お前、いつまで過ぎた事言ってやがる」
「俺の中じゃ、過ぎてないんですよ。あの日のあの後悔の中にずっといるんです」
辛そうな声音は、まんまなんだろう。俺は八年償って、出所して、第二の人生歩み始めて。そういう区切りもあったけれどこいつは、ただただ反省待ちしたまま「許す」も「許さない」もないまま今まできてしまったのかもしれない。
俺が、悪いんだろうな……。
「野瀬」
「はい」
「あ…………もう、いい。許すし、恨んでない。だから、その……ただいま」
「! あっ……おかえり、なさい」
驚いたように目を丸くしたこいつの「おかえりなさい」は、泣き笑いみたいだった。
酒と、適当に食いものが運ばれてきて、昔よりは多少上品に飲んだ。俺は昔と同じくブル・ドッグで、野瀬はルシアン。カプレーゼ、アンチョビパスタ、マルゲリータ、ナッツ、オシャレな料理も食べながら俺達は色々話した。半同居みたいに入り浸っていた時代の話、その頃にやったバカに、離れてからの話。懐かしいばかりの青春とその少し先。
野瀬はまるであの頃のままで、酒を片手に饒舌になっている。多分酔いが回ってきたんだろう、こいつは話したがりで少し甘えてくる。俺は、それをいつも受け止めていた。
家が家だ、甘えなんて知らなかったんだろう。一緒に飲んでいるときこいつはよく「畑さん、優しい」と体重を預けてきた。大型犬に懐かれたみたいで、くすぐったかったっけ。
気づけば二人でいるには十分なスペースがあるのに、俺達は隣り合って近い距離で飲んでいた。
「俺、畑さんに憧れてたんですよ」
どこかぼんやりとした声で、野瀬は突然そんな事を言う。俺はというと、それが少しくすぐったかったりする。
「憧れる所あったか?」
「ありますよ。俺、本当に惚れてたんで」
「惚れるって……」
「あっ、嘘だと思ってますね? 俺の腰に、鷹の彫り物あるの覚えてます?」
「ん? あぁ」
確かに、野瀬の腰の右側には鷹の刺青がある。もう時代にも合わなくなってきたし、無理に入れる必要はないと俺も若頭も言ったが、こいつは頑固に入れると言った。
丁寧な和彫りで、時間もかけて、墨の一色だが深くて細かいいいものができた。広げた羽根を僅かに畳みつつ鋭い足で獲物を捕らえる寸前の鷹は、こいつみたいだと思った。
「あれ、畑さんが俺に似合うって言ったから、鷹にしたんです」
「はぁ?」
「場所も、一緒がよくて」
「おいおい」
確かに俺も同じ位置に彫り物がある。ただ、柄は金魚と蓮だ。金魚はこれでも「財」に纏わる縁起物で、「蓄財」や「富」の意味を持つ。黒一色で入れた蓮の下を、赤と黒の金魚が泳ぐ。黒は邪気払いだ。
けど、まさかペアルック感覚で墨入れたとは知らなかった。
「だから、何かがっかりしたんですよ」
「あ?」
「会いに行った日。俺、凄くドキドキしてたのに。出てきたのがヨレヨレの小汚いおっさんで、一瞬人違いかと思いました」
「おもくそ失礼だな!」
まぁ、否定もしないんだが。
野瀬は楽しそうに小さく声を上げて笑う。思いだしたのか、俺をトロッとした目で見上げながら、随分上機嫌で。
「待ちわびた分、美化上乗せしてたんでしょうね」
「悪かったって」
「……でも、安心しました」
「は?」
「俺、今の貴方には変な気起こさないだろうなって、確信できて」
俺は、ドキリとした。
「安心した」と言いながら、そのくせ野瀬は残念そうな顔をする。その意味はなんだ。本当に安心したなら、もっとそれっぽい顔をすればいいだろうに。
「俺、不安だったんですよ。再会して、昔のままの貴方が出てきたらきっと、好きになるんじゃないかって」
「お前、そっちの人間だったか?」
「女性ですね」
「俺が安心したわ」
「でも、別に恋とかしてたわけじゃなくて、なんとなく流れとかが多かったから。その可能性も、否定しきれなくなってましてね。憧れ拗らせた挙句惚れるって、逃げ道ないじゃないですか。マジで、震えてたんです」
手にしたグラスの中で、カランと氷が揺れる。俺は野瀬の横顔を見つめたまま動けなくて、俺の方なんか見ないで手の中のグラスに視線を落とすこいつの苦笑を凝視していた。
「それで出てきたのが、無精髭に髪伸びっぱなしで猫背の貴方でしょ? ないなって思ったら、気が楽になりました」
「俺、そんなに汚かったか?」
「少なくとも抱きたいとは思わないレベルで」
「そりゃ幸いだわ」
「……でも、やっぱり畑さんは畑さんで」
「ん?」
「俺の事叱ったり、遠慮なかったり」
「あー」
「気に掛けてくれて。そういう時間が心地よくて、たまらなくくすぐったくて。二度、惚れました」
「お前、大丈夫か?」
「ダメかもしれませんね」
言いながら、また楽しそうにクツクツ笑う。俺はそんなこいつの事を突き放す気持ちはなくて、でも受け入れてやるほどの度量と覚悟もなくて、ただただ扱いに困っている。
空いたグラスを見つめて、野瀬はまた同じ物を頼む。俺のもついでに。そうして届いたものをまた、チビチビと飲んでいる。
「正直自分でも驚くんですよ。これでも女性はグラマラスな人ばかりだったのに」
「おっさんだぞ」
「枯れてますね」
「失礼な奴」
「事実ですし」
確かに、事実だな。
「思えばあの当時、貴方には沙也佳さんがいて、俺はそこにお邪魔していて、入り込む隙なんて出会った時からなかったから、こういうの気づかなかったんでしょうね」
「いなかったらどうするつもりだったんだよ」
「ぶち犯す」
「鬼畜!」
「あっ、ははっ。まぁ、それは冗談ですけど、多分気づけたんじゃないですかね。憧れなんてキラキラした青臭い気持ちとは少し、違うんだって」
俺、奥さんいて正解だったわ。今更になってそう思ってしまう。
実際、俺だって相手は女性だ。妻と呼べるくらいの人がいて、娘もいるんだからそうだろう。事実、男相手に妙な気分になったことはない。少なくとも、今までは。
「今の枯れ畑さんとなら、俺はこの妙な気持ちを気のせいにして、新しく先輩と後輩か、常連の一人としてやってける。そう、思っていたんですけれど……」
グラスから俺に、視線が移る。その濡れた哀しそうな顔、こいつは自覚あるんだろうか。泣く一歩手前みたいな寂しそうな目は、俺に何を訴えているんだ。
「……次、行きませんか?」
「え?」
「美味い蕎麦の店、知ってます。日本酒も」
「おぉ。でも、足……」
「歩いて行ける距離ですし、帰りはうちの者に送らせるかタクシー使います。もう少し、付き合ってください」
「まぁ、それなら……」
時間はまだ十時前だし、正直美味い蕎麦は食いたい。飲み直すのも悪くない。
俺はその誘いに乗って上着を持つと、意外にもしっかり歩く野瀬の背を追いかけた。
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