5話

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 いつの間にか泥のように眠っていた。そうして目が覚めたのは、野瀬の腕の中。体は痛いし腰は重いしで最悪だった。  背中に、野瀬の体温を感じている。離さないようにと必死に抱き込むこいつの腕を、今ならきっと避けられる。深く眠っているのだと分かる息づかいを聞きながら、俺は考えていた。  まず、昨日のアレはダメだろ。叱らなきゃいけない。  そのうえでだ、俺はこいつとの関係をどうする。避けるか? 多分こいつは追ってはこないだろう。負い目がある。  でも…………きっと、泣きそうな顔をするんだろう。壊れそうな顔をするんだろう。泣き方すら知らない奴の不器用な「さようなら」ほど、後味の悪いものはない。  何より俺は、今でもこいつを心底嫌っちゃいない。叱らなきゃ、なんて思ってる時点で関わる気満々だ。 「はぁ…………」  結局、絆されたんじゃないか。捨てられないんじゃないか。必死にしがみつくこいつを振りほどけないんじゃないか。 「勘弁しろよ……四十のおっさんには重いっての」  この年で若い、しかも男の恋人なんてどうすりゃいい。正直昨日みたいなのをしょっちゅうは体がバラバラになる。大体恋愛も、もう引退考えてたんだぞ。  首だけ振り返って見る野瀬は、随分可愛い顔で寝ている。強い印象を与える目が閉じているだけで、整っているのに少しあどけない。落ちた髪が頬に掛かって……安心した顔をしている。 「…………はぁ」  溜息一つ。俺はそっと腕の中を抜け出して、脱ぎ捨てたズボンとパンツを拾ってとりあえず着た。  ドアを開けるとリビングらしい空間が広がっている。フローリングに、高そうなL字のソファ、馬鹿でかいテレビに、アイランドキッチン。  真っ直ぐキッチンに向かった俺は遠慮なく冷蔵庫を開ける。食材は乏しいものだ、多分自炊しないんだろう。キッチンも綺麗だが、どちらかと言えば使っていない綺麗さだ。いいレンジもあるのに、勿体ない。  他も漁れば食パンが出てきた。冷蔵庫には使いかけのベーコンと卵、野菜庫にはレタスとタマネギとトマト、一通りの調味料はある。多分だが、たまには作るんだろう。もしくは誰かが作りにきているか。 「まぁ、朝食だしな」  素早く食パンをトーストに。鍋にお湯を沸かしてコンソメを入れ、短冊に切ったベーコンを入れて卵を溶き入れる。野菜は洗ってレタスは手でちぎって、丁度よさげな木製ボールに盛り付けた。タマネギは薄くスライス、トマトはくし切り、それにドレッシングを出せば立派な朝食になる。  まぁ、時計を見たらもう昼だけれど。  それらを二人分盛り付けてテーブルに出した所で、寝室のドアが開いて上半身裸の野瀬が起きてきた。下は俺と同じように昨日のズボンだろう。  用意された飯を見て、野瀬は立ち止まって驚いて……やっぱり、泣きそうに眉根を寄せる。酷い悪戯をして帰ってきたガキかよ、お前は。 「食うだろ?」 「あっ、はい……」 「コーヒー?」 「いえ、炭酸水で」 「あっ、そ」  洒落てやがる。冷蔵庫から開いてない炭酸水を出して適当にコップを出して置いた。ついでに俺もそれでいい。 「ほら、冷めるから座れよ」 「あの……」 「美味い時に食う! 飯を作った奴に対する礼儀だぞ」  分かってるよ、色々あるのは。俺だって色々ある。でもまずは腹にいれよう。空腹でする議論はろくな結果にならない。  座った俺につられて、野瀬も正面に座る。「いただきます」と小さく言った野瀬が、黙々と飯を食っている。ほんの少し、嬉しそうに。  だから捨てられないんだ。なんだよ、その嬉しそうな顔。そういうのが、料理人を喜ばせるの知っててやってるのかよ。また作ってやろうかなって思わせてんじゃねぇよ。  無言で食べた。食べ終わって、洗い物をして、そこで一服する。灰皿と煙草とライターがセットで換気扇の下にあるってことは、ここで普段も吸ってるんだろう。  野瀬のだが、いいだろう。アイツは顔を洗いに行ってる。俺は一本貰って吸い込んで、馴染んだ匂いと感覚に紫煙を吐き出した。  俺が吸っていた奴だった。  ガチャッと音がして、シャワーを浴びた野瀬がやっぱり上半身裸でタオルを肩にかけて戻ってくる。見せつけてるのか、この野郎。 「あっ、一服ですか?」 「んっ。勝手に貰った」 「いいですよ」  隣にきて、水を飲み込んで。そして煙を吐いた俺の手首を掴んで自分の口元に。深く吸い込んだ野瀬は、妙に寂しそうな顔で俺を見た。 「お前、俺と同じの吸ってたっけ?」 「いえ」 「じゃあ、なんで?」  俺の記憶が正しければ、野瀬はもっと高いのを吸っていた。  妙に口を割らない野瀬を俺は睨む。するとしばらくして観念したのか、深く溜息をついた。 「貴方の匂いが、忘れられなかったんですよ」 「……はぁ?」  え、なに……。それって…………。  こみ上げる熱は恥ずかしさから。隣の野瀬が参ったと言わんばかりに濡れ髪をかきあげる。そして、観念して笑った。 「せめて同じ匂いを感じていたかったんです。そうすると、落ち着く」 「おま!」 「でも、違いましたね」 「っ!」  隣のまま、覗き込むようにされるキス。昨日ほど深くはないが、何かを伝えようとするそれを俺は感じて、目を丸くした。 「もっと、沢山の匂いが混ざってた。煙草、シャンプー、それに体臭」 「加齢臭だろ」 「そうですか? 少なくとも俺は、嫌なものだなんて思ってません」  言うやいなや、首筋に鼻を押し当てられる。煙草持ってるってのに、危なっかしい。触れないようにひっそりと灰皿に押し当てた。 「俺、好きですよ。畑さんの匂い」 「……あっ、そぉ」  もう、なんて言っていいのか。とりあえず言えるのは、説教はするが現状維持……かな。
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