392人が本棚に入れています
本棚に追加
その後、午後十一時に酔っ払いおっさんズは帰っていって、店は俺と野瀬だけになった。ビールから日本酒に切り替えた野瀬がチビチビと飲む。カウンターを挟んで正面に俺も座って、ビールを飲み込んだ。
「で、何の用だよ」
「飲みに来たんです」
「場違いだろうが。店間違ったくらい浮いてたぞ」
最初は、な。一時間もおっさん達と飲んでたら、いつの間にかこいつは馴染んだ。馴染めるようになったんだ。
その間にも常連な客が来て野瀬に驚いて、三十分くらい飲んで食べて梯子しにいく。そいつらとも野瀬は楽しそうにしていた。
「けっこう、人くるんですね」
「ん? あぁ、まぁな。殆ど近所の常連だ」
「……人がまったく来ないなら、俺の店とか誘ったのに。これじゃ、誘えません」
「…………」
なるほど、閑古鳥が鳴いてりゃ手元にと思ったのか。だがおあいにく様、これでもそれなりに売り上げはある。派手な事はしないが、地道に毎日頑張ってるわけよ。
「畑さんの人タラシ」
「人聞きの悪い言い方するなや」
拗ねたガキみたいな事を言う。溜息をついて切り返す俺はビールを飲み込んで、奥へと行って戻ってきた。手にはあの封筒だ。
「ほい、忘れ物。ドアの修理費だけ貰ったからな」
「全部あげます。そのつもりで置いていきました」
「貰えるかよ、こんな大金」
「……今日の売り上げ」
「売り上げてねーのにんな大金貰えるか! 実績伴う金しか受け取れない!」
「じゃあ、その分食います」
「おーい、現実見ろ? 無理だろ?」
こいつ、滅茶苦茶な事を言うようになったな。
「……」
封筒の中はまだぎっちり札束。でもこのままじゃ野瀬も引き下がらない。本当に面倒くさい頑固野郎だ。
考えて、俺はあいつの前で中から二万だけ抜き取り、暖簾を下ろして鍵をかけた。そしてどっかりとアイツの前に座って、日本酒の瓶を置いて残った料理を盛り付けた。
「お前の金で俺も食わせて貰う。お代は貰ったから、後は返す」
「いや、でも……」
「これ以上は譲らん! いいから食え、飲め」
空のグラスに酒を注いで、俺も飲む。野瀬は黙ってそれを受け取って飲み込んで、料理を口に運んだ。
野瀬は口数少なく飲んだ。そうして少し酔いが回る頃、俺をジトリと睨んだ。
「どうして畑さんは俺をなじらないんだ」
「あ?」
そりゃ一体、どういう意味だっての。訳が分からん。大体、俺はこいつを恨んでないし憎んでもいない。それでなじれって、どういう意味だ。それともこいつは俺を女王様かなんかと間違ってるのか。
「俺のせいで、人生棒に振ってるじゃないか。昔はいいスーツ着て、舎弟何人も連れて、若頭やオヤジと一緒にやってたのに」
確かに、そんな時代もあった。学のない俺だったが、オヤジ達は気に入って良くしてくれた。曰く、「お前は人当たりが良くて面倒見がいい」とのこと。将来は幹部の端っこくらいには置こうか、なんて酒の席の冗談もあった。
でも、今にして思えば俺にはそんな器はない。過剰評価だと思っている。もしくは冗談だ。
「そっちが幻影だろう」
「……俺も、畑さんはもっと上に行けると思ってた。腕っ節も強くて、面倒見がよくて、器用で」
「はいはい、お前酔ってるから」
「俺が、殴り殺したんすよ。シマに入ってきたチンピラに加減できなくて、止まんなくて……本当なら俺が」
「止めろよ、済んだ話は」
ちびりと飲む俺の前で、野瀬はだらしなくカウンターに伏せている。眠いんじゃない、愚痴り顔を見せたくないというこいつのプライドみたいなもんだ。愚痴ってる事に変わりないってのに。
「アンタが行くまで手を出すなって、言われてたのに。安い挑発に乗った挙句」
「事故でもあるって。殴って倒れて打った所が悪かった。三流シナリオみたいなオチだろ」
「それでもアンタが尻拭いして捕まる必要はなかっただろ!」
ドンとカウンターを叩く拳。ガタンと揺れた食器。それでも野瀬は顔を上げない。
「もっと下がいたでしょうよ……」
「現場を知ってる方が辻褄合わせやすい」
「……俺の親父が何かしました?」
「若頭はなんもしてねぇよ」
「マジか……俺、何かしたと思ってぶん殴った」
「おま! 命知らずか!」
「ボッコボコにされて部屋にぶち込まれました」
カラカラと自棄クソに笑う野瀬に、俺は「笑えねぇ……」と呆れる。ここの親子喧嘩は一般家庭のそれとは違うだろう。見たかねぇ。
野瀬のコップに酒を注ぎ足す。それに気づいて僅かに顔を上げた野瀬の頬は上気していて、目は僅かにトロッとしている。匂い立つような色気ってものは男にもあって、おそらく今のこいつがそれなんだと感じた。
「……沙也佳さんとも、別れたんですよね」
「…………あぁ」
その名は、正直まだ少し痛い部分だった。
俺には、妻と呼べる相手がいた。内縁で、籍は入れてないが二十代で一緒になって、娘もいた。お互いちょっと世間からはみ出して、知り合って、意気投合した仲だった。
ガチャガチャした女性だったが、結婚したら不思議と落ち着いて、娘ができたら母親になった。それを、俺は不思議に思って見ていたんだ。
でも、捕まるって時に持ってる金を全部渡して別れた。冷静に、考えちまった。職業だけで苦労かけてるのに、更に前科持ち。そんな俺についてきて、この後沙也佳も娘も幸せになれるのかって。事件で逆恨みした奴が襲うかもしれない。事件を嗅ぎつけたマスコミとかが騒ぐかもしれない。そう考えたら「待っててくれ」なんて、言えなかった。
俺から別れを告げた時、沙也佳はグッと拳を握って……凄く時間を掛けて頷いた。でもあの目は、俺を恨んだみたいに鋭かった。
『ヘタレ』と、出て行く俺の背中に呟かれた言葉。俺はそれに、返す事ができなかった。
「……やっぱこの金、置いていきます」
「あ?」
「ってか、足りないんでこっちも置いて行きます」
懐からまた新しい封筒。厚みからいって昨日と同額くらいある。
「いらねぇ」
「何でです。俺のせいで貴方、十年棒に振ったでしょ。大事なもの全部手放して、残ったのがこの店って」
「バカにするのかよ」
「……俺、ずっと後悔してたんだよ。なんで兄貴ばっか……」
クシャリと握られた封筒。「クソ」と呟く野瀬の声。澄ました仮面が剥がれたこいつは、けっこう知ってる顔をする。
「別に、十年棒に振ったなんて思ってねぇよ」
「……え?」
俺の言葉を信じてないのか、野瀬は訝しげに眉を寄せる。でも俺は本心から、そう言えるのだ。
「両親と折り合い悪くて高校中退した俺は、学がない。器用にしてたって、金を稼ぐ知恵はない」
今のヤクザは金が稼げなきゃ成り立たない。弱い奴を狙った犯罪も横行しているが、うちの組はそれを嫌う。言えない事もあるだろうが、真っ当にも稼いでるはずだ。
でも俺は古いタイプで、知恵はない。今の時代から置いて行かれている。そう、最近はひしひしと感じる。
「ムショにいる間、けっこう勉強した。今の高校生って、随分難しい勉強してんのな」
「え? いや……」
「それに、更生プログラムで手に職つけられるようにって、色々やった。お陰で調理師の免許も取れて、今はこうしていられる。出てきて二年、細々とだけど生活して、ガクさん達みたいな知り合いも出来た。そんな、悪くなかったよ」
手放したものは多かった。でも、新しく手にしたものも多い。だから、棒になんて振ってはいない。無理してしがみつくよりも、今の気ままな生活の方が俺には合っていると思うんだ。
野瀬は納得していない顔をしている。でも、目の前の焼き鳥にかぶりついて、一言「うま」と呟いた。
「……俺、また来てもいいですか?」
「まぁ、客としてなら。あっ、高いスーツ着てくるなよ」
「仕事上がりなんでそれは無理」
こいつ、仕事上がりかよ……。
「……貴方の邪魔、しませんから。今の生活壊そうとか、秘密をばらそうとか、しませんから。だからもう少し、いてもいいですか?」
泣きそうな声と顔で言われたら、俺はどうすりゃいいわけよ。ダメって言ったらお前、そのツラどうなんの。
結局は絆されるんだろうと思う。強引に来られると流される。甘っちょろくて、お手軽で。特に昔の知り合いとか、関わりたくないと思っていたのにいざこうなると懐かしくて……ちょっと可愛くもあって、許してしまうんだ。
「約束、守れよ」
「はい」
「あと、バカみたいな金置いてくのやめてくれ」
「融資ってことで」
「無利子、無担保、無制限、無期限なんて、お前の商売じゃないだろうが」
そして返そうとすると受け取らないんだ。そういうのは融資って言わないで、譲渡っていうんだぞ。
野瀬はクツクツと笑って、だらしなくカウンターに潰れる。このまま寝てしまいそうなこいつの肩を、俺は慌てて叩いた。
「おい、起きろよ! 俺じゃお前を運べないっての」
「ここでいいです」
「いいわけあるか! 連絡先!」
「ここで寝ます」
「頼むから人の話を聞けっての……スマホ!」
「捨てました」
「バカか!!」
どうしても出す気はないようだ。
溜息一つ。俺はカウンターから出て野瀬の脇に腕を入れて担ぎ上げる。正直運動不足な四十代には腰にくる。が、まだ意識のあるうちじゃないとどうにもならない。幸い明日は定休日だ。
担いでどうにか狭い急階段を登って、布団に転がす。高そうなジャケットは脱がせて、ネクタイは緩めて。
背中を少し丸めて眠そうにするこいつは……ちょっと幼く見えた。
「ったく、なんなんだよ……」
刺激なんてない、お決まりな毎日。繰り返すだけの日常。の、はずだったのに。野瀬の出現ですっかりしっちゃかめっちゃかで調子が狂う。
でも、なんでだろうな? 懐かしくて、ほんの少し楽しい俺も確かにいるんだよ。
寝息が整ってきたのを見て、俺は後片付けに下に降りていった。
最初のコメントを投稿しよう!