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その日の営業を終えて無事に暖簾を降ろす。明日は定休日で、野瀬に会いに行く。仕込みもないからゆっくりと寝られると表の鍵を掛けた時、背後に一台の車が止まった。
黒塗りスモークのフーガ。あまりにいかつい。少なくとも近くに駐車とかしたくない車だ。
そこからやっぱり黒服の鳥羽が降りてきて、キッチリと腰を折った。
「お迎えに上がりました、畑さん」
「え? いや、明日……」
「明日、ですよ」
確かに日付変更線を跨いだ。明日だ……けど。
「さぁ、参りましょう」
「いや、今店閉めた所で……」
「閉めたのならば大丈夫ですよ。何せやる事が沢山で、本当であれば二ヶ月ほど時間が欲しいくらいですし」
「二ヶ月! 一体何をする気なんだ!」
何用の二ヶ月だよ! え? 教育とかされるわけ? ってか、今から何をするつもりなんだこいつ!
そうこうしている間に黒服が二人降りてきて俺の両脇を抱える。あれよあれよという間に俺は車の中だ。
「あっ、でもまだ火の点検とか」
「鍵、これですね?」
「……あぁ」
「頼む」
「はい」
黒服が一人、店の鍵を持って降りて店の中へと入っていくのを、俺は呆然と見た。
「戸締まりと火の点検、ついでに留守番もさせるのでご安心を」
「いや、ご安心をって……」
「出せ」
「はい」
「ちょっと!!」
走り出すフーガ、遠ざかる俺の店。俺が手を伸ばしても戻れない。俺はそのまま訳も分からず拉致られたのだった。
その後、俺は裸に剥かれてとにかく全身磨かれた。採寸され、整体でゴキゴキ体を伸ばされ、サウナに、オイルエステ。フェイシャルエステ、ネイル、散髪までされて体中ピッカピカにされた後で何やら水を飲まされたが……まさかの下剤飲まされて、更にその後で腸内洗浄までされるとは。
そうして現在午後三時。仕立てられたスーツを着せられた俺は別人状態だった。
「元々の素材は良かったのですね。安心いたしました」
「お前なぁ……」
鏡の中のそいつ誰? と、俺は真顔で言いたい。
丸まっていた背中が伸びて身長が少し伸びた。髪は短く綺麗にカットされて耳が見えるくらいスッキリ。フェイシャルエステで下がっていた頬の辺りは引き締まって肉が上がった。むくみまで取れたから目も大きい。腹の中も綺麗になって、なんだか気分もスッキリだ。
「背中は丸まっていましたが、腹は出ていなかったようですし」
「健康を考えてそれなりに柔軟と筋トレはしてたんだよ」
「それを聞いて安心しました。後でスポーツジムの年間パスお渡しいたしますね」
「行く暇が……」
「体を錆び付かせてはいけませんよ」
にっこり笑って言う鳥羽がいっそ怖い。多分拒むと今日みたいな事になるんだろう。
「スーツまで仕立てたのかよ」
「フルオーダーは無理でしたので、仕立てを直した感じです。お似合いですよ」
スリーピースのダークブラウン、裏地はオシャレにチェック。中は白シャツで、ネクタイはやっぱりブラウン系で纏められた。ピンもつけられ、明らかに俺じゃない。更には放置状態だったピアスまで付けられている。赤い小さな一つ石だ。
「昔みてー」
「だらしない生活をやめれば、今頃このような状態だと思いますが」
「気楽な独身生活だぞ。俺はそんなストイックじゃねぇよ」
「残念です。数時間前の貴方は非モテでしょうが、今の貴方なら女が寄ってきますよ」
「それも面倒なんだよ」
俺の言いように、鳥羽は今度こそ諦めて溜息をついた。
「店までお送りいたします。うちの持っているバーですので、お代はお気になさらず」
「はいよ」
「……面倒な上司ですが、一途でもあるのです。貴方に置いて行かれたと知った時には酷く傷ついた顔をしていました」
「…………」
「よろしく、お願いします」
頭を下げられた俺は、整髪料の匂いのする頭をかく。そして黙って、送迎の車に乗り込んだ。
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