壱、

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壱、

 暮六つの鐘が、今日も鳴る。  ゴーン ゴーン ゴーン…  暖かな光と静かな夜の合間で、茜色に輝く夕陽が人々に労いを向け、今日も沈み行く。  鐘の音を合図に、(じん)は今日も、走る。  黄金色から橙へ変わり行く夕陽に向かい、全力で、走る、走る、走る。  自らの影に、追われていた。ちらと振り返れば、長く伸び行く影から無数の黒い手。仁の脚を掴まんと伸ばしては、しかし走る其の脚に置いて行かれ、影が途切れ、消える。其の繰り返しが、仁を襲い来るのだ。  周囲の陰からも手が伸び来る。駄目だ、建物には入れない。すれ違う人々も、彼が横切る其の一瞬だけ黒い何かへ化け此方を凝視する。助けを呼ぶ事も出来ない。兎に角今は、夕陽に向かい走るが唯一の手段であった。  新吉原の門を潜った直後に、暮六つを迎えてしまった。  彼は、此処に用事があった。吉原の中央に位置する黒町屋と言う仲見世に、化物に詳しい女がいる。其れは肌も髪も白い、白狐の如き遊女…妖狐太夫であると。  其の噂に、藁をもすがる思いにて、この影について助けを乞いに来たのだ。しかし、昼に家を出たのに何故か暮六つに着いてしまった……普通なれば数刻もせず着く筈なのに。  息を切らせて走り、黒町屋の看板を見付ける。嗚呼、でも今立ち止まれば影に食われる。立派な玄関を横目に通り過ぎた辺りだ。  背後より、駆け寄ってくる足音がある。影か?もつれる脚を必死に動かしたが、足音は速い。あっという間に追い付き、駄目か…思った瞬間。思いがけず仁の身がひょいと持ち上がった。 「えッ…」 「暫し我慢だ」  男だ。肌の浅黒い色男だが、足の速さが尋常ならぬ。抱える腕も体格も並程度なのに、男は軽々と吉原を走り抜け、やがて火の見櫓の梯子を其のままひょいひょいと上り出す。西陽を丁度真横に受け、新たな影は出来ぬまま。……日の入りと共に、周囲の違和感はすぅ…と消えた。 「有り難うございます」  胸を上下させながら仁が弱々しい笑みを向ければ、男より爽やかな笑みが返って来た。 「良いって事よ」
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