弐、

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弐、

 翌日、暮六つより少し前。  「明日此処へ来遣れ」と女に指定された其の場所は、何も無い野原。其処に向かえば、源三郎が独り、待っていた。……恐らく、あの女は遊廓より出られないのだろう。 「よお、間に合ったな」  ニコリ、あの爽やかな笑みを向けてくれる。其れだけで仁の心に渦巻いていた不安は少し和らいだ気がしたが、其の浅黒い手に持つ鎖に、又少しばかりの不安が過ぎる。 「俺は、何をすれば良いのでしょう?」  さすれば、源三郎は仁の腰に鎖をひと巻きし、固定しながら口を開く。 「説得するんだ」 「説得、…って」 「あの影は、煉獄の扉であるとあいつが言うたよな?其れを仕掛けている者がお前さんの母親である場合、あの影の奥に居る筈だ。さすれば、方法は三つ」 「三つ……」 「一つ、出家する。影に誠意を見せ、諦めさせる。但し、先にお前さんが言うておった遊女には二度と会えん。又、十年、否二十年……時間がかかる。 二つ。遊女を影に差し出す。早いが、命を一つ失う事となる。 三つ。直に影の主の所へ出向き、説得する。 今試さんとするは、この三つ目だ」  ざわり……妙に生温い風が、草木を揺らす。二人の影が次第に伸び、暖かく総てを照らし続けていた陽の光に、ほんのりと冷たいものが混じりつつある。其れが己の汗である事に気付いた時、源三郎は懐より一枚の紙を取り出し、仁に握らせた。形代である。 「これは?」 「順を追って話すぞ。 先ず、お前さんには影に沈んで貰う。俺は入れぬが、この鎖の先は俺が持って置こう。 影の主を探し、誠意を持って説得しろ。お前さんに非が無いのであれば(・・・・・・・・・)、相手は必ずや応じるだろう。 ……もし無駄であったり、相手が襲ってきたら、この形代を投げ付けろ」  ざ あ ぁ ……  風が俄かに冷え、陽が徐々に赤く、紅く、染まり行く。背後より藍が迫り、遠くより鐘の音が聞こえた。  ゴーン ゴーン ゴーン… 「さぁ、……来るぞ」  源三郎が数歩、仁より下がった。途端。  ”オオオオオヲヲヲヲヲ”  始まる、あの違和感。  伸びた影がザワザワザワと騒ぎ始め、表面が沸々と沸き、其れは直ぐ黒い、黒い、無数の手となった。  仁の脚を掴む。氷より冷たく、綿より柔らかい。  膝を、腹を、腕を、首を、一本、二本、五本六本十本。無数の手、無数の手、手、手、 手手手手手手。 「う…ぁ……ひぃぃ……!」  自ら進んで沈むとは言え、底知れぬ恐怖が仁を包んでいた。ガタガタ震える身、歯の根合わぬ口がガチガチと鳴る。  源三郎に目を遣る。少し不安気な表情で此方を見ているが、助ける様子は無い。しかし其の手にはあの鎖。 「たす……け―――」  助けてくれ!本能が仁にそう言わせようとした其の時、  目前に、手。  刹那、顔を掴まれる感覚。  水に沈む様な音。 "ドプン"  と共に、景色が総て、消えた。
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