現実逃避行

2/14
前へ
/14ページ
次へ
 また夕方がやって来た。 太陽と一緒に気持ちまで沈む。 「ママ、お腹すいたね」 「そうね……」  私の手を握る幸平(こうへい)は私のそんな気持ちには気付かない。  また派遣切りになった。 今月の生活費も底を尽きかけている。貯金なんて口座があるだけで、ゼロに等しい。  辛うじて借金はしていないが、時間の問題だ。これ以上生活を切り詰めるわけにもいかない。  幸平は保育園の年中だ。保育料は無償化されたけれど、給食費や雑費はどうしてもかかる。年長になると絵の具道具や鍵盤ハーモニカもいるらしい。  やっとアパートまでたどり着く。三階の部屋まであと少しだ。左手には幸平の手、右手にはスーパーの袋、仕事帰りの体はもう限界寸前だった。 「ママ見て! 鳥がいる!」  二階と三階の階段の踊り場で幸平が言う。 「あら、ほんとね」  返事はしたものの、実際のところ鳥なんて見えないし、そんなことどうでもよかった。  幸平は踊り場にしゃがみ、手すりの間から覗いている。 片手が空いたので、手すりにつかまる。築数十年の三階建てのアパートは古びていて、手すりは錆でざらりとした。  踊り場からは夕日が見えた。やたら大きくて真っ赤な太陽は、綺麗と言うより不気味だ。  手すりに寄りかかると視線が下がり、地面が見える。 結構高いな…… 落ちたら死ぬかな…… そうしたら楽になれるんだろうか…… でも痛そうだな……  いけないいけない。こんな気分の時はろくなこと考えやしない。 再び幸平の手を強く握る。 ん? 何かふわふわする? 「それは俺の耳だが」  私が握った手の先にいたのは幸平ではなく、うさぎだった。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加