6人が本棚に入れています
本棚に追加
「仕事を辞めてほしい」
出産予定日がわかり、母子手帳をもらった日に宏之に言われた。私が三十三歳の冬だった。
宏之は別れた元夫で、幸平の父親だ。
赤ちゃんのこともあるし仕事が大事な時期だから、家にいて支えて欲しいと宏之は言った。宏之が責任のある仕事を任され始めた頃だ。
今思えば、六つ年下の彼は、私が自分より稼ぎが多いことを気にしていたのかもしれない。
私は十年以上勤めていたから、仕事では中堅的な立場だった。
会社にはまだ妊娠のことを報告していなかった。まだまだ男社会で、退職を迫られるような気がしていたから。
実際、母子家庭の同僚が苦労する様子も見てきた。皆が残業する中、保育園の迎えで早く帰らなければならない彼女は、「すみません」といつも謝っていた。
いや、むしろ私も彼女を疎ましく思ってさえいた。仕事の忙しさで人を気遣う余裕なんてなかったから。
早く帰れていいな。
口には出さないまでも、冷たくそう思っていた。隠しきれない態度で彼女を傷つけていたかもしれない。
私は仕事を辞めることは考えていなかった。育休を取って復帰する。当たり前のようにそう思っていた。
「仕事を辞めてほしい」
宏之の言葉を聞いた私は、人生の選択は突然くるもんなんだな……と、他人事のように思った。
歳上の私と結婚してくれたという引け目があったのかもしれない。宏之に反対する言葉がみつからなかった。
そして、同僚の彼女にしてきたことが自分に返ってきたのだと、そんなふうに静かに状況を受け入れていた。
「ふうん、なるほどね……」
サングラスうさぎの声で我に返る。
幸平はうさぎにもらった夕焼け色のキャンディーをなめていた。
うさぎは赤いドアを閉めると、また青空色の道を進み始めた。
最初のコメントを投稿しよう!