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「話があるって何?あれ、ここは……」
私はなんだか喉の奥に搔痒感を覚えつつ、状況の把握に努める。呼び出されたという記憶だけが片隅で燻っているが、なぜ、どのようにして私が今ここにいるのかを見失っている。
「ナオ、屋上見たくない?」
私を呼び出した張本人であろう女がいる。
「別に見たくないよ……屋上は立ち入り禁止だし、許可取るのも面倒だし。」
内鍵を横目で認め、ごねる私を遮るように彼女は、
「誰かが作った合鍵、部室棟の前で拾ったんだ。ね、ナオ、屋上行こうよ。」
「でも勝手に行くのはやっぱり嫌だよ、ドアノブに鎖がまかれてるし、入るなっていう強い命令を感じるよ……」
「どういう困難があるかじゃなくて、ナオが行きたいかどうかだよ、それにそもそも屋上云々を言い出したのはナオなのに。」
「ナオ、どう?少しは屋上行く気なった?」
くるりと私の視界が揺らぎ、遠近感が失われる。
午後の白金の斜日に眠気を誘われる。外では体育、この盛り上がりはチームスポーツだろうか。
「ねえ、ナオ、屋上見に行かない?」
後ろの席から周囲を気遣うようなか細い声で話しかけられる。授業中でもない、もっと言えばこの教室には私以外いないのに。そもそもこんなフランクな間柄だったかな、と思いつつ私ははやばやと断る。
「いや、ナオは屋上見たいはずだよ、見る義務もある。」
急に教室に射していた白金の夏日が、音量のつまみを間違えたように異常な光量となり、目がくらむ。そして景色は白飛びし、意識もまたその白に塗りつぶされた。
「ねえ、ナオ、屋上、行きたくなった?」
私は声の主を探し、少し驚く。自分の机の下だ。休み時間だからだと自分を納得させる。
「行こう、屋上。」
「え~、行かないよ、高いフェンスあるし、汚いし、風景もたかが知れてるし……」
「関係ないでしょ、そんなことは。」
眉をひそめるまでは行かないが、声のトーンが少し落ちたのを感じた。
「じゃあ何を目的に屋上に行くの?」
「私に聞かないでよ。」
こっちは後ろの座席があるから椅子もそんなに引けず、凄い首の角度で机の下を覗いているのに、あっちは目を合わせる努力さえせず、翳っている。と思ったら目が合った。その目はなんだか光を感じさせず、奥が見通せない、濁ったような不透明さがあった。その黒目に吸われるような感覚を覚えフリーズしていると、頭上から黒目と同色の暗幕が降ってきて視界を覆われ、黒に飲まれる。
「ナオ、そろそろ屋上行く気なった?」
私は寝ているところの不意を突かれ、少し驚く。
「屋上、私はいいや~」
と言いつつ机の隣に立つ彼女を見る。ショートカットなのに表情が判然としない。黒目の大きさが不安定でゴマくらいになったと思えば白目を覆いつくす。そして、髪から雫が滴っている。
「逃げるのが上手いね、本当。」
彼女は私に話しかけるが、私は逃げるように脳に生じた困惑や驚愕に意識を運びブラックアウトする。
「ナオ、屋上行こう~」
頭の、上から声がした。肩が飛び上がりそうだったが、自然な振る舞いを意識して、息を潜めゆっくりと上を向く。目の前に顔がある。とても気味悪い、嫌悪感を催すような……彼女は天井に立つでもなく、頭から落下するのが途中で止まったような宙ぶらりんだ。
「どう?屋上、行く気なった?別にこれさ、私の為に誘ってるんじゃないんだよ?」
口調はいたって普通。ただ何を言っているのかはさっぱり理解できない。呼吸が浅い。息、声が震えるのを必死で抑え込み、そう……とだけ呟く。
突然、濡れた髪がどばっと私にかかる。他人の濡れた髪に包まれた私はそこで呼吸する気になれず、そもそもさっきまでの息が浅かったのも相まりすぐに苦しくなる。
「ナオ、屋上、行こうね。」
喋れない、首が振れない。
呼吸困難で目の前がスパークする。その一つ一つの星が爆発するように明るさと領域を広げ、私の意識は押しつぶされる。
「「「「ねえ、ナオ、屋上、行こう?」」」」
私は目を瞑っている。
上、下、右、後方から私の名と屋上への誘いが飛び交っている。私は目を開けられない。目を開ければ囲まれていることをまざまざと突き付けられるだけだからだ。黒目しかない濡れ髪のショートヘアの女に、4人分の髪を飲まされるかもしれない。
屋上行こう~、屋上行こう~、ナオ、屋上行こう?ナオ?ナオ?屋上行こう~ナオ、屋上……
キリがない。恐怖も勿論あるが、抱き始めた怒りをかき集め、手繰り寄せる。目を開ける覚悟を決める。
3……2……1…
ばっと開ける、視界に飛び込んできたのは、まるで生前の姿の、セイラだった。囲まれてもおらず、たった1人、彼女は真正面に立っていた。
「屋上行こう?」
ここまでくると行くしかないかな、とさえ思えた。
私は、私たちは、彼女を虐めていた。引っ越してきたよそ者で、父親はガンダムオタクで娘にセイラって名付けてショートヘアにさせてた。オタクの娘と言ってもセイラは結構美人で、いや、かなり美人で、父親はなんだか高給取りらしく、美人な妻を貰ったみたいだ。彼女はぼんぼんだった。親に愛されてた。たぶん、性格も良かった。オタクつながりか分かんないけど、セイラの月経はセーラームーンとか言われてて、女子はすぐ男子にチクってた。馬鹿な男子はそれで騒ぐ。他にもトイレで水をかけた。上履きを男子に渡した。机に余計にニスを塗って1人だけ艶艶にした。蹴った。体操服を男子に渡した。着替えている写真を撮った。屋上に、閉じ込めた。
彼女は、屋上の外側のドアノブで首をくくった。
正直そこまで追い込んでいる自覚はなかった。男子なんかは、接触というか、何かしらの関係を持てるだけで嬉しくてやっていた節もある。セイラは、繊細だった。
「どう?屋上、行ってみる気になった?」
彼女は優しい笑みを浮かべながら語りかけてくる。でも、私には行ってはいけないという確信がある。
「行こう、ナオ。」
そもそも、下の名前で呼ばれるほど仲が良かった覚えはない。
「ねえ、ナオ、行こう。」
嫌だ。
「行こう、ナオ。」
行かない。
「行かなきゃしょうがないよナオ。」
「ナオって呼ばないで」
「手引っ張ってあげようか?ナオ。」
……
私は痺れを切らし、机を蹴って正面のセイラにぶつける。教室を飛び出し、2階の家庭科室を目指す。必死で走る。無酸素運動くらい、短期決戦な感じで走る。窓の外に窓の数だけセイラがいて、私に語り掛けてくる。各トイレのドアノブでは首をくくったセイラが呻いている。すべて無視する。走って、走って、走って、駆け上がって家庭科室に着く。教卓に座ったセイラがニコニコしている。私は舌打ちし、無視して引き戸を開ける。そこには真っ白に血の抜けたようなセイラ(素人鑑定死後2日)が詰まっているが無視。その横の刺身包丁を取る。そしてそのまま教卓に向かい、微笑むセイラの首を2度、右と左からさっぷりさっぷりと斬りつける。するとちょっと大袈裟なくらい血が噴き出す。返り血に濡れながら、私だってよそ者で苦労したんだ、と逆ぎれめいた怒りのままにセイラを殺して回る。斬る、斬る、斬る。大きいセイラ、小さいセイラ、濡れたセイラ、既に死んでいるようなセイラ、逆位置のセイラ。セイラの死が学校に積み重なる。50人以上のセイラを斬ったところで、ふと気づく。多分、私は屋上に行ったら終わりだが、屋上にもセイラはいるはずだ。というより、屋上にいるであろうセイラこそがこの現象の温床だろう。
それに気づいた私はトイレに駆け込み、鏡の前で急所を確認し、私を一刺し。鏡の奥、つまり私のすぐ後ろで、セイラは花のような笑みを浮かべていた。噴き出した私の血が私の目を潰す。走り回り斬って回った影響で酸欠なのか、リストカットの時に見る血とは違う、どす黒い赤に私は包まれた。
「ナオ、屋上行こう?」
……ここは?屋上前の階段?なんで私はこんなところに?それに何で彼女が?
「ナオ、屋上見てみたいでしょ?」
いやべつに、見たくないけどなあ。
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