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Dear…
彼の寝息が聞きたくて息を殺していた。
どれくらい時間が過ぎたのか。
部屋の真ん中にある二人掛けのソファーで窮屈そうに足を曲げて眠る姿を壁際に座り見つめている。
自分より大きく筋肉質な身体、寝ぐせのついた黒く硬い髪、薄い唇の左端のほくろ。
すべて許しているような無防備な寝顔を壊したいと思った事などないのに不意に触れたい衝動に駆られて少しだけ胸が痛んだ。
とても静かだ。
彼の呼吸の音なんて聞こえない。
自分の心音さえ響かない。
それはまるで誰も知らない僕だけの秘密。
彼は僕の。
どうして好きになったのかと聞かれればずっと一緒にいたからとしか言いようがなく、どうして諦められないのかと聞かれてもずっと一緒にいるからとしか答えられない。
押し殺して押し殺して平静を装う事が当たり前になって、いつか終わりが来るとは想像も出来なくなった。
鈍くなっていく罪悪感が鉛みたいに沈んでいく。
右手が宙に浮いていた事に気づいてゆっくりと左手で掴まえた。
握り締めた手首から鼓動が伝わる。
すぐにでも飛び出して行きそうな感情が顔を覗かせる。
静かに目を閉じた。
喉の奥が熱いのには気づかないふりをして十分過ぎるほど冷えた頭の中にすべてを閉じ込める。
わかっている。
本当に大切なものは誰にも見つからない場所に隠しておかないといけない。
「なあ、終電なくなるぞ」
「うーん・・・泊まってく」
「ダメ」
「こっからのが大学近いんだ」
「そう言って何日泊まってんの。帰れって」
しっしっと右手を振りながら、レポートを仕上げると言ってやって来て早々に寝落ちした彼のパソコンを覗くと案の定真っ白で溜め息が出た。
気づいた彼が慌ててパソコンを閉じる。
「今日だけっ」だからそう言ってもう数日なんだけど。
訴えかける表情がチクチクと心の隅を刺激する。
乱暴に後頭部をかいて聞こえないようもう一度溜め息を吐く。
これだから、ああ、もう。
そして自分で自分に同情しながらいよいよ負けて「明日は帰れよ」と声をかけた。
弾けた彼の笑顔を真正面から捉える。
濁りのない純粋さと、くしゃりと音がしそうな三日月の目を見つめて何でもないふりで笑い返す。
こんなにも疑う余地のない完璧な笑顔を他には知らない。
胸の騒めきはまた鳴りを潜めていた。
別に不幸になりたい訳じゃないけれど幸せは何だか煩わしくて。
変わらない。
何も変えられない今日も明日も、明後日も。
望んでいるのは永遠にも似た時間。
彼は僕の。
「ありがと、兄ちゃん」
僕の弟。
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