おじいちゃんのクルミ

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 ずっと放置していた実家の勉強机を整理していたら、上から三段目の引き出しの隅にクルミの実が二つ転がっていた。急に有機物らしきフォルムが目に入って一瞬のけ反ったものの、よく見るとコーティングされているおもちゃか何かのようだった。なんとなく見覚えがある。 「どしたの」  ベッドに腰掛けて本を読んでいた妻が顔を上げる。 「これ、見覚えある?」  そう言って僕は手のひらに乗せたクルミを差し出す。その反動でクルミが円を描くように転がり、乾いた音とともに天然ものの凹凸を感じた(これが天然物なのかはわからないけれど)。 「んー……、あ、教室で見せてくれたやつ? 小学校のときだっけ」 「あ、そうか」 「うん、かすかにおばあちゃんの匂いする」  鼻を近づけてみると、確かに祖父の匂いがした。そうだ、これは祖父からもらったものだ。  実家は二世帯住宅になっていて、二階が両親の世帯、一階が祖父母の世帯である。幼い頃は祖父母ともに健在で、学校帰りなどによく遊びに行っていた。一階に顔を出すと、リビングとキッチンの間の微妙な位置にあるローテーブル一面に新聞を広げて読んでいる祖父の姿がいつも正面にあった。そのとき祖父は必ずと言っていいほど、左手でこのクルミを二つ転がしていたのだった。  そしてあるとき、僕はクルミを一組譲り受けた。どのようなやり取りがあったか思い出せないし、祖父が自分にどのような口調で話しかけてくれていたのかも覚えていない。なぜだか、祖父が大人同士で紳士的という表現がとてもよく似合う丁寧な、かつ感情の乗った心地よい声で話していた姿だけが思い浮かんだ。  僕はそれを学校に持って行って休み時間に取り出し、一人で転がす練習をしていた。二つのクルミを片手で転がすのは難しかった。 「それなに?」  僕によく話しかけてくれていた女子が近寄ってきて訊いた。 「ん……おじいちゃんにもらった」  僕はクルミを持った左手に目を落としたまま答えた。この頃の僕はかなりの口下手で、恥ずかしがり屋だったのか単に頭が悪かったのかわからないが男子ともろくに話せないくらいだったから、女子とうまく話すなど到底無理だったはずだ。 「へー」  女子が僕の左手に顔を近づけてくる。 「あ、なんかおばあちゃんの匂い」 「ん、おじいちゃんのだよ」 「おばあちゃんち、この匂いするよ」 「……」  僕は返答を思いつかず、俯いてクルミをいじっていた。 「さわってもいい?」 「うん」  クルミを女子に渡す。 「ごつごつしてる」  両手で一つずつ持って、手を握ったり開いたりしている。僕は無言でその手を見つめていた。  そこへ先生が入ってきて、教室の雰囲気が変わる。 「あ。じゃあ、またね。ありがとう」  僕は無言でクルミを受け取り、おじいちゃんの匂いと女子の匂いがひそかに混ざった空気の中で次の授業の準備を始めた。 「これ、手で転がしてみて」 「いいの?」  僕は妻にクルミを二つ渡した。すると妻は左手で二つのクルミを持って転がし始めた。 「あれ、片手で転がすものって知ってた?」 「え、こういうものじゃないの?」 「そうだけど……」 「なんか知ってた」 「天才ですか」 「へへ」  まあ、健康法として流行ってた気もするからテレビとかで目に入ったのかもしれない。 「これ、父さんの病室に持ってこうと思うんだけど、どうかな」 「んー、病室に線香の匂いはどうなんだろう」 「え、これって線香の匂い?」 「だと思ってたけど、違うかも。なんだと思ってた?」 「……おじいちゃんの匂い」 「ふふっ! あはは!」  妻に笑われながら、僕は今は誰も住んでいない一階にちゃんと顔を出してから帰ろうと思った。
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