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月と私の内緒ひとつ
涼しい風と鈴虫の声。月がきれいですねなんてセリフがぴったりな秋の夜長。明日は中秋の名月が見れますねって昨日後輩は言っていたけれど、灰色に覆われた空模様から察するに、どうやら今年は名月を拝めそうにない。
アイラブユーを月がきれいですねと訳すなんておしゃれすぎて、いまいちピンとこないけれど、今の私にはそんなことどうでもよかった。
あと少しで終業を迎える時間帯、頭も体も完全に帰宅モードだった。そこでミスが発覚し、残業を強いられる羽目になった。
働き方改革だなんだで、なるべく定時で帰るように言われるけれど、だったら仕事量も減らしてほしいものだ。同じ量の仕事を短時間でこなせなんて、むしろ前よりハードだ。今日は真っ直ぐ帰って録り溜めていたドラマを一気見しようと思ってたのに。
他にも何人かいた残業組は一人、また一人、と帰宅し、気づけば私一人になっていた。時間も確認せず、半ばやけくそになってキーボードを叩いていたところに、一人分の足音が近づいてくる。
「おつかれ。残業中?」
フロアの違う部署の先輩。直属の上司ではないが、お気に入りの定食屋でばったり遭遇してから何かと気にかけてくれている。
実は好きだったりする。でも、この彼、なんせモテる。基本的に優しいし、人の懐に入り込むのがうまい。彼に羨望の眼差しを向けているのは一人二人ではない。その優しさに勘違いしそうになっては自分を律してきた。
コンビニの袋を手に隣の椅子に座った彼のスーツは、よく見ると濡れている。窓の外を見ると雨脚が強くなっていた。
「けっこう降ってきたよ。傘持ってなくてさ」
予期せぬ残業。降り注ぐスコール。困り果てた顔の彼。思わぬ雨宿り。飛び込んできたチャンス。どう転ばせるかは私次第?
お月様はまだかくれんぼ。動き出した雲。あと数時間もしないうちにきっと姿を見せてくれるでしょう。だけど、雨、まだ止まないで。
「そんな頑張り屋さんにささやかなご褒美」
今秋から新発売の食べたかったコンビニスイーツ。デスクに置かれたかぼちゃプリン。ふわりと頭に置かれた手。
そのままポンポンと二回あやすように撫でられる。少女漫画だったら、きゅんという効果音がしっくりきそうなその行動。必殺技かと思うほど自然にやってのける彼に、まんまと落ちていく私。
先輩、それ、女子が弱いやつってわかってる?誰にでもやってるの?ずるいよ。私ばっかり。
じっと見つめてしまったからか、あっ、と何かを思い出したように固まる彼。恐る恐るこちらを向き、そこら辺のあざとい女子顔負けの上目遣いで聞いてくる。
「これ、セクハラになる?俺、訴えられる?」
「訴えません」
私があなたに何の感情も抱いていなかった場合。下心見え見えの上司だったら。それはアウトだけど、嫌じゃないのでセーフです。
わざわざ離れたコンビニの期間限定スイーツを買ってきたり、頭ポンポンしたり、自分の分の仕事は終わったくせに帰ろうとしなかったり、コンビニで買えたはずの傘を買わずに今それとなく一緒に雨宿りしていることも、その全部がずるくて、自惚れてしまいそうになる。ちょうど糖分を欲していたところだったから、ご褒美はありがたくいただく。
「優しいですね」
本当に。でも、その優しさは、ちょっとずるいです。
正面を向いたまま、何かを見据えるように音もなく微笑んだ彼のその微笑みがあまりに色っぽく、いつもの先輩とは違う雰囲気を纏っていて、視線を逸らせなくなった。
「誰にでも優しくできるほど、俺はできた人間じゃないよ」
どういう意味かわかるよね?って彼の目が訴えかける。ずるい、その顔。私に言わせるつもりなの?
「なんてね。雨弱まってきたし、今のうちに帰ろうか」
私を捕らえて離さなかった妖艶な瞳の彼は、いつもの優しい先輩の顔に戻っていた。どこでギアチェンジしたのか、一瞬の出来事に戸惑う。
鍵を持った彼が数歩先で待ってくれていた。急いで荷物をまとめて席を立つ。消灯したフロアは薄暗く、ようやく顔を見せ始めた月と街灯の明かりが窓から控えめに差し込むだけ。
だから、トンっとぶつかったのが急に止まった彼の背中であると、そして目の前が真っ暗になったのは抱きしめられたからだと、理解できるまでに少し時間を要した。
突然のことに思考が追い付かず、体は硬直したまま。目が暗闇に慣れるのと同時に少しずつ状況を把握し、顔に熱が集まる。
「今度こそ訴えられちゃうかな」
あぁ、ずるい。とてもずるい。私が嫌じゃないって、きっとわかってる。
「…訴えません」
背中に回されたスーツの腕が、私の腰を一歩引き寄せる。心臓が早鐘を打っているのは私だけじゃない。
ねえ、言わせないで。応えて。欲しいのはその気持ち。もう誤魔化さないで、高鳴りを。遊びじゃないのよ、あなたとは。片想いは今日で終わりでいいよね?
鞄の底に眠る折り畳み傘は、お月様と私だけの秘密。ずるい彼にひとつくらい隠し事があったっていいでしょう?
唇が離れて月明かりに浮かび上がる彼と目があったとき。月がきれいですね。その意味が、わかったような気がした。
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