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黄昏の魔女
「ね、進士。昼と夜の合間にしか食べられない『料理』があるって、知ってる?」
そう訊ねてきたのは同棲中の彼女の美杏だ。彼女は少し変わり者というか、『この世界には魔法がある』『自分は魔女である』だなんてことを真顔で言い出すような女だ。まぁ、要は不思議ちゃんである。
「知らない。そんなものがあるの?」
俺は彼女が語ることを欠片も信じてはいない。だけど、彼女の話を聞くのは嫌いではなかった。
日々はストレス――俺の場合は主に仕事のものだが――に満ちている。だから時には彼女の語る『空想』という名の現実逃避を、一緒に味わうのも悪くはないと思ってしまうのだ。
これが毎日のことなら辟易としていただろうが、美杏はいつも俺が忘れた頃にぽつりと語り出す。そのタイミングはまるで、綺麗に測られているかのようだった。
「そ、あるの」
美杏は漆黒の瞳を細めて妖艶に笑う。彼女の容姿は美しく、たしかに『魔女』のような色香が漂っていた。
「待ってて」
スカートから覗く白く細い足を動かして、美杏は台所へと向かう。
そして……白い大皿を手にして戻って来た。
……今日の彼女はどんな『空想』の世界に誘ってくれるのだろう。
俺はそんな期待を胸に抱きながら、その白い皿を覗き込んだ。
「そのお皿をどうするの?」
「……ふふ。見ていて」
彼女はカーテンを開けると、暮れなずむ空に捧げるかのようにその皿を向ける。
すると――
ぴちゃん。
皿に濃いオレンジ色の『なにか』が落ちた。そして艶やかな色彩を皿に広げる。
ぴちゃん、ぴちゃん。
白い皿に広がっていくのは、オレンジ色だけではない。
緋色、濃紺、そして小さな輝き……これは『星』だろうか。
ぴちゃん。
最後に落ちたのは、おそらく『月』。それは夕闇の空に浮かぶものらしい、薄くぼんやりとした月だ。
「美杏、これは……」
「この時間になるとね。空が少しだけ、地上に落ちてくるの」
紅い唇がにい、と笑みを描く。彼女はスプーンで皿をかき回した。
オレンジ、緋色、濃紺、星、月……すべては混じり合い、それは漆黒となった。
まるで美杏の、瞳の色のような黒だ。
――皿の上に、星のない夜が訪れた。
なんだこれは。
彼女がいつも話していたこと、それはすべて妄想だったのではなかったのか。
闇夜の中でだけ使える魔法。
美しい娘たちから、少しずつ『美』を奪う方法。
二ヶ月に一回、氷山の上に集う魔女たち。
美杏が話してくれた様々な話が、すべて真実なら……『美杏は一体何者だ』。
「さ、召し上がれ」
どろりとしたそれをスプーンで掬って、美杏は俺に差し出す。
静かな、だけど有無を言わさぬその迫力に負け――俺は口を開いていた。
美杏の、漆黒の目を見つめながら……
ああ、いつも彼女が言っていた通り。
美杏は『魔女』なのか。
俺は……そんなことを確信した。
そしてその考えは、すとんと心に馴染んだ。
舌の上で、夜が蕩ける。それは意外なことに、とても甘やかな味がした。
「お味はどう?」
「……ブランデーとチョコを、混ぜたみたいな味がする」
「ふふ。なかなか美味しいでしょう?」
そう言って笑う美杏は、年齢よりも無邪気に見える。
美杏の話すことは『空想』ではなく『現実』だった。
けれどそれも、いいのではないだろうか。
そんなことを思う俺は、この魔女にすっかり魅入られているに違いない。
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