黄昏の魔女

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

黄昏の魔女

「ね、進士。昼と夜の合間にしか食べられない『料理』があるって、知ってる?」  そう訊ねてきたのは同棲中の彼女の美杏だ。彼女は少し変わり者というか、『この世界には魔法がある』『自分は魔女である』だなんてことを真顔で言い出すような女だ。まぁ、要は不思議ちゃんである。 「知らない。そんなものがあるの?」  俺は彼女が語ることを欠片も信じてはいない。だけど、彼女の話を聞くのは嫌いではなかった。  日々はストレス――俺の場合は主に仕事のものだが――に満ちている。だから時には彼女の語る『空想』という名の現実逃避を、一緒に味わうのも悪くはないと思ってしまうのだ。  これが毎日のことなら辟易としていただろうが、美杏はいつも俺が忘れた頃にぽつりと語り出す。そのタイミングはまるで、綺麗に測られているかのようだった。 「そ、あるの」  美杏は漆黒の瞳を細めて妖艶に笑う。彼女の容姿は美しく、たしかに『魔女』のような色香が漂っていた。 「待ってて」  スカートから覗く白く細い足を動かして、美杏は台所へと向かう。  そして……白い大皿を手にして戻って来た。  ……今日の彼女はどんな『空想』の世界に誘ってくれるのだろう。  俺はそんな期待を胸に抱きながら、その白い皿を覗き込んだ。 「そのお皿をどうするの?」 「……ふふ。見ていて」  彼女はカーテンを開けると、暮れなずむ空に捧げるかのようにその皿を向ける。  すると――  ぴちゃん。  皿に濃いオレンジ色の『なにか』が落ちた。そして艶やかな色彩を皿に広げる。  ぴちゃん、ぴちゃん。  白い皿に広がっていくのは、オレンジ色だけではない。  緋色、濃紺、そして小さな輝き……これは『星』だろうか。  ぴちゃん。  最後に落ちたのは、おそらく『月』。それは夕闇の空に浮かぶものらしい、薄くぼんやりとした月だ。 「美杏、これは……」 「この時間になるとね。空が少しだけ、地上に落ちてくるの」  紅い唇がにい、と笑みを描く。彼女はスプーンで皿をかき回した。  オレンジ、緋色、濃紺、星、月……すべては混じり合い、それは漆黒となった。  まるで美杏の、瞳の色のような黒だ。  ――皿の上に、星のない夜が訪れた。  なんだこれは。  彼女がいつも話していたこと、それはすべて妄想だったのではなかったのか。  闇夜の中でだけ使える魔法。  美しい娘たちから、少しずつ『美』を奪う方法。  二ヶ月に一回、氷山の上に集う魔女たち。  美杏が話してくれた様々な話が、すべて真実なら……『美杏は一体何者だ』。 「さ、召し上がれ」  どろりとしたそれをスプーンで掬って、美杏は俺に差し出す。  静かな、だけど有無を言わさぬその迫力に負け――俺は口を開いていた。  美杏の、漆黒の目を見つめながら……  ああ、いつも彼女が言っていた通り。  美杏は『魔女』なのか。  俺は……そんなことを確信した。  そしてその考えは、すとんと心に馴染んだ。  舌の上で、夜が蕩ける。それは意外なことに、とても甘やかな味がした。 「お味はどう?」 「……ブランデーとチョコを、混ぜたみたいな味がする」 「ふふ。なかなか美味しいでしょう?」  そう言って笑う美杏は、年齢よりも無邪気に見える。  美杏の話すことは『空想』ではなく『現実』だった。  けれどそれも、いいのではないだろうか。  そんなことを思う俺は、この魔女にすっかり魅入られているに違いない。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!