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 朝から雨だという天気予報が外れたものの、今にも雨が降り出しそうな中、有里は大志と二人だけでいつもの公園に出かけた。  曇天のせいか少しだけ涼しい。しかし湿気を多く含む風が肌にまとわりつき、心地良さはなかった。  さやかと連絡を取らなくなってからは、公園に来るのも久しぶりだった。  今日は天気のせいか、公園には大志と有里以外は誰もいない。  誰かいたとしても居心地が悪いからかえって都合がいいや。雨が降り始めたら早々に退散するつもりで、有里は久しぶりに大志と向き合って砂場で遊んだ。 「こんにちは」  大志以上に砂のトンネル作りに夢中になっていた有里は、不意に後ろから声をかけられた。驚いて顔を上げると、いつもの派手なママグループの中で一番背が高く目立つ女性が子供と手を繋いで立っていた。  明るい茶色のストレートのロングヘアを一つに結び、迷彩柄のキャップをかぶっている。ピタリと体に沿ったTシャツとデニム。有里よりずっと丁寧に施してあるメイクが彼女の顔を一層華やかにしていた。  声が大きくいつも元気の良い彼女を、有里はたびたび公園で見かけるものの、内心では一方的に苦手に思っていた。しかしそれを悟られないように慌てて挨拶を返す。 「こんにちは」  いつもなら彼女との会話はここで終わるはずだった。しかし珍しく彼女はそのまま話し続けた。 「よくこの公園に来てるよね」  有里は戸惑いながらも小さく頷く。今日は彼女のグループの仲間が誰も来ていないから、自分を話し相手に選んだのだろうか。 「今日はいつものメンバーがいないから、ちょっと寂しいな」  まるで有里の思ったことを言い当てるかのように彼女は続けた。どう答えようとか有里が悩んでいると、彼女は、 「竜星(りゅうせい)と一緒に遊んであげて。えーと……」  大志に向かって話しかけたので「大志」と横から有里が教えた。 「大志くんね。よろしく!」  そう言って彼女は、今度は有里に向かってニカッと笑った。 「大志くんママは、名前何て言うの?」 「萩原有里です」 「やだ、敬語やめてよ。私は唐橋美佐子(からはしみさこ)。今更だけどよろしくね」 「よろしく」  ポンポンと軽やかに言葉を連ねる美佐子に、有里は圧倒された。  砂場遊びに飽きた大志が走って滑り台に向かうと、竜星がその後を追いかけた。微妙な距離を保ちながら進む二人を見て、美佐子は砂場のすぐ脇のベンチに腰を下ろした。 「有里さんも座れば」  促されて有里も美佐子の隣に腰を下ろす。  近寄りがたく思っていたが、意外に気さくな人なんだ。 「今まで結構良く会ってたのに、ちゃんと話をしたことがなかったよね」  美佐子は再び有里の心の中を読んだようなことを言う。 「まあ、私たちいつも固まって騒いでるから、話しかけづらいか」  「私たち」とは派手ママグループのことだろう。 「そんなことないよ」  しかし有里は小さな声でそう返した。美佐子はそれを聞いてか聞かずか、淡々と続ける。 「めっちゃ雨降りそうだけど、今日公園に来てよかったよ。有里さんと友達になれた」  美佐子の言葉に 「私もよかった」  有里はそう返すのが精一杯だった。 「ねえ、有里さんはお腹何ヶ月?」  今度は美佐子は有里のお腹を見ながら質問する。 「もうすぐ七ヶ月なの」 「実は私も妊娠中!もうすぐ安定期なんだ」 「そうなんだ。気づかなかった」 「あはは、まだ目立たないでしょう。お互いに夏の妊婦、頑張ろうね!」  そう言ってガッツポーズをする美佐子と、おかしな言い回しに有里も一緒になって笑う。 「あ、雨」  不意に美佐子が空を見上げた。つられて顔を上げた有里の頬にも水滴が落ちる。 「やばいよ、これ。多分一気に来る」  そう言って広げかけた荷物を片付け始める美佐子に倣って、有里も慌てて砂場にどっさり広げたおもちゃを片付ける。 「竜星ー!帰るよーっ!」  滑り台の上いた竜星に向かって、美佐子が声を張り上げた。 「やだーっ!」  竜星も負けじと叫ぶ。 「でも、雨だもん!帰るよ!」  二人の会話を聞いていた大志が、先に滑り台から下りて有里の元に戻ってくると、竜星もつられたように滑り台から引き上げた。 「あれ、今日はすんなり帰れそう。大志くんのおかげだ。ありがとう!」  美佐子は大志の頭を撫でると、 「またね」  持っていた大きなバッグからタオルを二枚取り出し、一枚は自分に、一枚は竜星の頭にかけて、そのまま颯爽と帰って行った。  こんなに簡単なんだ。こんなに簡単で、良かったんだ。  大志を寝かしつけながら、有里は今日の美佐子との会話を何度も頭の中で再生していた。同時に「話しかけてみればいいのに」「迷惑そうなら離れればいいのに」以前、ママ友ができないと相談した時の健斗の答えも思い出す。  もしかして、自分はすごく無用の回り道をしていたのかもしれない。  ぼんやりとそう思いながら、有里は上半身を起こした。大志の笑顔をそっと見る。小さく規則的な寝息が聞こえた。ようやくしっかり寝入ったようだ。  ガチャガチャと玄関の鍵が鳴ってドアが開き「ただいまー」と健斗の声が聞こえた。  思いの外はっきり響いた声に、有里は大志の方を見た。大志はむずむずと少しの間身をよじったが、そのまま起きることなく眠り続けている。有里は吐息をついた。せっかくようやく寝かしつけたのに。起きちゃうとまた大変だから、もう少し静かに帰ってきてよ。そう注意しようと決意して、大志を残して寝室からそっと出るとスーツから部屋着に着替えている健斗がとても疲れた顔をしていたので、有里はまた言葉を飲み込んだ。 「お帰り。今日も遅いね」 「うん、最近忙しくて。疲れがたまるよ」  いつもより言葉少なな健斗はスーツをソファに放り出し、テレビをつけて食卓についた。有里は準備してあった夕食を電子レンジで温め直し、健斗の前に並べる。  いつものように今日あった出来事の報告として、有里は美佐子のことを健斗に話そうとしたが、簡単なことで今まで悩んでいた自分がどう思われるだろうか想像するとなかなか言い出せなかった。  有里が黙っていると、健斗も珍しく黙ったまま食事を終え、そのままリビングに移動してソファの上に横になった。  食器、今日も下げてくれない。  連日のことだが、やはり今日も同じだと思うと、有里の心の中で黒い靄が広がった。思いきってこれ見よがしにわざと乱暴に食器を片付けるが、健斗は全く気にせずに自分のスマートフォンを眺めている。  まただ。また私ばっかり動いている。私が気を遣って一生懸命に立ち回っても、お構いなしなんだ。  健斗の横顔を見ながら、何故かさやかの顔も浮かび、有里は無性に苛々した。 「ねえ!」  語気を荒げて呼びかけると、びっくりしたように健斗は顔を上げる。 「何、どうしたの?」 「また今日も食べた後の食器がそのままだったよ。最近いつもそう。私が仕事していた時はちゃんと自分で片付けてくれていたのに」  その口調のままソファに乱雑に置かれたスーツを指差す。 「スーツも、置きっぱなしにしているのを最近は私がいつも片付けている」  有里の剣幕に健斗は目を丸くしている。 「何も言わずにやってくれていたから、任せていいのかと思っていた。嫌だったんだ。ごめん」 「嫌だったよ。あと、私が嫌だと思っていることをちゃんと気付いて欲しかった」  怒りに任せて言葉を連ねていると、堰を切ったかのようにこれまで飲み込んできた言葉が溢れ出てきた。黒い靄の正体は、時間をかけて蓄積された澱だった。  酷い悪阻で苦しんでいた大志を妊娠中のあの日、初めてはっきり仕事を辞めたいと思った日。「今のままで仕事を続ける自信がない」思いつめてそう相談する有里自身に、健斗は結論を選ばせた。 「私が仕事を辞める時も、私は健斗の意見を聞きたかった。健斗が本心ではどう思っているのか、聞いてから決めたかった。そう思っていたのに、それに健斗は気付いてくれなかった」  呆けた顔で有里の話を聞いていた健斗だが、その言葉を聞いたとき、初めて表情を引き締めた。 「それなら言ってくれよ、言ってくれなきゃわからないよ」  崩れた体勢を立て直し、しっかりソファに座って真っ直ぐに有里を見つめる。 「確かに有里はよく気が付くし、俺は鈍感だよ。色々先回りしてやってくれて、ありがたいと思っている。俺ももっと自分から気がつくように、これからは注意する。でも、思うことがあるなら、その時その場で言ってくれ」 「その場で言って気まずくなるのが嫌だから、言えないこともあるの」 「自分のせいで気まずくなるのを怖がって、相手が動くのばかり待つのはやめてくれよ」  その言葉はまるで一筋の矢のように、澱を出しきって空っぽになった有里の心の一番深いところを突き刺した。有里は言葉に詰まる。  ああ、私はさやかで、さやかは私だ。私がさやかに抱いた苛立ちが、今、全部私に返ってきている。  修学旅行の清水寺のさやか、マンションのエレベーター前でスマートフォンを眺めるさやか、いつも有里から気が付いて、有里が手を差し伸べるの黙って待っている。  健斗に仕事のことを相談した私、健斗の食器やスーツを片付ける私、黙ってじっと彼を見つめて、彼が結論を出してくれるのを、彼が自ら動いてくれるのを期待して、叶わなくて、裏切られたような気持ちになる。 「ごめん強く言い過ぎた」  健斗がバツの悪そうに下を向いて、有里は初めて自分が泣いていることに気付いた。 「違うの。私、今気付いた。すごく大事なこと」  子供のように、手の甲で涙を拭う。 「言わなきゃ伝わらない。そうだよね。私、もっと言っていいんだ」  健斗は立ち上がり、気まずそうに自分のスーツを片付け始めた。 「うん、もっと言っていいんだよ。そりゃ喧嘩になることもあるかもしれないけど、俺ちゃんと聞くから」  また溢れそうになる涙を有里はぐっとこらえる。 「赤ちゃんが生まれたら、きっとまたもっと大変になる。だから、ちゃんと言って。もっと信頼して、俺のこと」  有里は何度も頷き、そっとお腹を撫でた。それに応えるかのように、お腹の中で小さい手足が大きく動いていた。
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