追いつかない感情

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追いつかない感情

6月11日に戻っていたのは、日付の表示だけではないことに気付いた。 先輩がいなくなる前の6月11日に既に処理したはずの報告書や出勤管理表など、事務データが消えていた。 「岡田さん。」 「ん?」 「確認したいんですけど、」 「うん。」 「今日は6月11日ですか?」 「そうだよ。  コンペ間近だから、頑張らないとな。」 これは、時間が戻っていると確定していいのか。 今のところ、夢から覚める気がしない。 もちろん、覚めて欲しくない。 左横に座っている岡田さんに視線を移した。 見ていることがバレないように、顔はデスクトップに残したまま。 マウスを無駄に動かしたり、ちょっとタイピングをしてみたり、できるだけ不自然にならないための対策だ。 「何か聞きたいことあるの?」 「え?なんでですか?」 「いやいや、見過ぎだから。」 岡田さんはクスッと笑いながら、何を隠しているのか聞き出そうとしている。 バレないように最善の注意を払っていたつもりなのに、バレていたようだ。 とんでもなく気まずくなった私は、隠しきれず苦笑いをしてまう。 「岡田さん、元気ですか?」 とっさに質問してしまった。 「元気だよー。」 「本当ですか?!」 「嘘ついてもしょうがないし、どう?  元気でしょ?」 岡田さんは手を広げて、胡散臭くい笑顔作った。 これは、私をからかっている笑顔だ。 「体だけじゃなくて、何かつらいこととかないですか!?」 「だから、大丈夫だーって。」 「頼りないと思いますけど、なんでも聞きます!」 「落ち着いて!  どうした?」 岡田さんは笑っているのに、葬儀の様子が脳裏に浮かんでしまい、急に悲しくなった。 目の前の岡田さんは生きている。 でも、私の中では、あの日岡田さんが自殺した事実が消えない。  「岡田さんが元気になるなら、なんでもします。」 なんで死のうと思ったんですか、なんて岡田さんの笑顔を前にしたら聞けるわけがない。 岡田さんに会ったら、絶対に理由を聞こうと思ってたのに。 今の私には、何ができるのだろうか。 「なんかよくわかんないけど、俺、元気だから。」 「よく分からなくて、すみません。」 感情が定まらず視線をあげられない私は、俯きながら答えた。 斜め上からは、岡田さんの視線を感じる。 「あー。  じゃあ、こないだ約束した映画。  何見たいから考えといて。」   「あっ、映画行く約束してましたよね。  岡田さんは、何が見たいですか?」 岡田さんが、映画デートのことを覚えていてくれたとわかり、こわばった表情が少しだけ和らいだ。 「なんでもいいよ。  ホラーでも。」 またもや岡田さんは私をからかっている。 いや、様子のおかしい私を元気付けようとしてくれてる。 「ホラーは嫌です。」 私は、ホラーが嫌いだ。苦手も苦手、大の苦手。 ホラー映画を見たら最後、夜は電気をつけないと寝れない。 「だろうな。  藤村が好きなやつで良いよ。」 自然に女子が喜ぶことを言い残し、岡田さんは立ち去って行った。 気を取り直し、パソコンのデスクトップに向き合い、今の状況を整理を試みた。 気持ちはまだまだ追いつかないが、状況整理をすれば少しは落ち着くはずだ。 ついこないだやったはずの仕事がリセットされているので、黙々と事務作業をこなしてしまいたいところだが、仕事どころではない。 それに、一度やってしまった作業をやり直すのは億劫だ。 日付が戻っていて、岡田さんは生きている。 パソコンのデータも、6月11日の朝の状態に戻っている。 時刻を確認すると、8時40分。 そろそろ、他のチームのメンバーも出社してくる。 もう少し、情報を集めよう。 コトッ、目の前に甘い香りの漂うカップが置かれた。 「どうぞ。」 いつの間にか戻ってきた岡田さんが、カップを置いてくれたのだ。 「えー、珍しい。  ありがとうございます!」 甘い香りの正体は、ミルクティー。 「藤村は、疲れてる時甘いもの飲みたくなるんだよな。」 岡田さんからは、苦い香りが漂ってくる。 この様子だと、岡田さんはいつものブラックコーヒーだ。 「いただきます。」 甘い香りを漂わせ、水分で柔らかくなった使い捨ての紙カップを、口に運んだ。 一口飲んだだけで、口の中が砂糖の甘さと茶葉の苦味でいっぱいになる。 あー、落ち着く。甘いものは正義だ。 前代未聞の状況下でも、心をホッと落ち着かせてくれる。 「朝から疲れてたら、1日持たないぞ」 「そうですね。  今日も1日頑張ります。」 まずは、仕事をしながら情報収集をしよう。 ミルクティーの甘さが、冷静さを少しだけ呼び戻してくれた。 冷静になって見てみると、先輩は最後に会った日と服装が同じだった。
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