別れのうた

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別れのうた

 魔女は言った。 「さあ、時間よ。リリィ・ロット」  かたい面持ちの少女を立たせ、真向かいに立った魔女は老いた指先に息を吹きかけ、緊張し切った白い喉に、トンと人差し指を押し当てた。  途端にプツリと糸を切られたような解放感が訪れる。  驚いてハッと吐息をついた少女の口から、次にこぼれたのは、鈴の音のように澄んだ声だった。 「――声が、出る。私……、うそ」 「あら、やっと声が出るようになったのよ。もっと気の利いたことをしゃべりなさいな」  声を立てて笑う魔女を前に、戸惑う少女は青い瞳を見開いた。 「今日のお仕事がいるかしら。歌ってくれる? カナリア・リリィ」  リリィはあふれる思いをこわごわと音に出す。  ラ・ラ・ラ――。  声が響く。聞きなれ憎んでいた濁った声ではない。リリィは戸惑って瞬いた。  なつかしい子守歌をくちずさむ。羽が生えたように心がはずむ。リリィは歌った。ゆりかごを揺らし、やさしくあやすようなぬくもりある旋律が小屋の中に満ちあふれた。  抑えられた声に、次第に自信とよろこびが宿り出す。  リリィはたまらなくなって外へ出た。  十三段の階段を駆け下りて、森に駆け込む。  息を吸い胸を膨らませ、音を伸ばす。喉を温め、高く低く音を揺らす。おぼつかない、けれど響きわたる。音が体の内側で大きくなって頭の先から鳴り響く。懐かしい心地を狂おしいほど抱きしめて、少女は高らかに歌うたった。   黒い森のざわめきに手を広げ、蝶が舞い花の見守る野原(サロン)に立つ。少女の背をゆっくりと追ってきたエヴァだけが聴いている。いまリリィが立てる最高の舞台だった。大好きだった賛美歌を透き通った声で歌い上げると、拍手が聞こえた。 「いい賛美だわ、神がいるなら喜ぶでしょう」 「エヴァ・コッコ。エヴァ! ありがとう、ございました。声が、声が戻るなんて、こんな……、前より、もっと――もっと」 「あらあら、涙で声を濁らせないで」 「だって、……もう諦めていた」 「『幸せ』と『不幸』あなたはどちらだと思うかしら」 「エヴァ、幸せ。私、――」 「そう。では、この手紙も意味があるわ」  差し出されたのは一通の白い封筒だった。  ラベンダーの花の意匠の封蝋。バーバ・ヤガの招待状に似ていたが署名が別物だ。  名を見てリリィは驚愕した。誰もが知る大音楽家だ。少女が震える手で封を切り手紙に目を走らせると、才能ある歌い手リリィの身の上に深く同情すること。エヴァ・コッコの頼みであればリリィを門弟として受け入れることが、力強い筆致で書き記されていた。  少女のセレスト・ブルーの瞳がうるむ。 「私、もう一度歌う。あなたにお礼をしたい。でも、私なにも渡せるものがなくて……」 「あなたが生い育つひとときと、美しい歌をもらったのに、これ以上貰うものなどないのよ。あとは思うままに生きればいい」 「あなたが魔法で治してくれたんでしょう?」 「治したのはあなた。毎日、喉を癒す薬草茶を飲んだでしょう。幸せに向かうのに、あまり魔法は必要ないの」  魔女は片目を閉じてほほえんだ。 「恐ろしいものだと思ってた。バーバ・ヤガもこの森も」 「その判断はつけないでいて。あなたの見たものが全てではないし、今の私はバーバ・ヤガの道具にすぎないのだから」 「道具って、どういうこと? バーバ・ヤガではないの?」 「そう。例えばこの身体、招待した者が望む姿に私は見える。私自身にそう魔法がかかっている。リリィが求めているのは母親ではなかったのね。やさしいおばあさまがいたのかしら?」  ハッとしたリリィの目の前に魔女の輪郭が揺らぎ、ぼんやりと懐かしい面影が重なった。  噴き出すような涙をこらえきれぬ少女の白い頬を魔女はつつみ、親指でぬぐうように撫でながら言った。 「どうか、よき明日へ」  リリィは老女にかじりつくように抱擁してキスをする。 「うたいなさい、カナリア・リリィ」 「手紙を書くわ、エヴァ・コッコ」  未来ある小鳥の背を、バーバ・ヤガはやさしく叩き、手紙を手にして少女を送り出りだすと、背を向け静かに小屋の木戸を閉じた。  リリィの姿が見えなくなったころ、魔女の小屋には待っていたかのように郵便配達夫が顔を出した。  声もかけずに無遠慮に中に入り込むと、少女の暮らしていた奥の部屋に向かった。  そしてそこに立つ美しい女の背に、声をかけた。 「無事に巣立ったんだ。あの子、ずいぶん雰囲気が変わってた。寂しくなるね、コッコママ」 「そうね。また、次の招待状を書きましょう」  振り返った目の覚めるような美女の笑みは儚げだ。けれど、どこか誇らしげに男には感じられた。肩をすくめ、彼女に孤児の名前の連なったリストを手渡す。 「バーバ・ヤガじゃないなんて嘘つきだ」  庭には山のように骨が埋まっているのにと、青年は揶揄した。 「私自身に魔法をかけたと、あなたにも伝えたでしょう」 「理由は教えてくれないね」 「ええ、それは私だけのもの。でも今の私がバーバ・ヤガの願いの姿」 「願い、ね。人食い魔女バーバ・ヤガの――。彼女もいつか誰かに救われたから?」  男はカバンから手紙の束を取り出し、皮肉げな笑みを浮かべた。 「たくさんの人を食べた罪滅ぼしは、いつ終わるの?」  エヴァ・コッコは差し出された便りを受け取るとおだやかな声のまま目を伏せた。  「不幸に落とした人の数、救える者を温めて私が自分を赦すまで」  煙に巻いた答えに肩をすくめ、青年は少女が天秤の上に残した銀のナイフを手に取った。重りをなくした秤はわずかに左に傾く。 「いつかこれが釣り合ったとき、かな」  重ねた彼のつぶやきに、魔女はほほえみのまま答えなかった。 「あの娘、本当に幸福に向かったと思う?」 「アーメン(そうあれかし)――。彼女が死ぬ時、尋ねに行くわ」  エヴァ・コッコは居間に戻ると、飴色のゆり椅子に深く腰掛ける。郵便配達夫の青年は帰りのドアに手をかけた。 「じゃあ帰る。また手紙を届けるよ」  魔女は古い知り合いからの手紙を愛しげに撫でている。封蝋のラベンダーは彼らからの『幸福』の報せだ。 「ねえ、バーバ・ヤガ(人喰い魔女)のエヴァ・コッコ――」  男はふと、足を止めて振り返った。 「ボクはいまも、ママがいるから幸せだよ」  扉は静かに閉じられる。  髪振り乱した醜い老婆は、心地よさそうに目を閉じて、リリィの歌ったハレルヤを老いた声で口ずさんだ。
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