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001 カフェ・クリソコラ
春の風吹く昼下がり。自転車を押しつつ緩やかな坂道を上っていた時、ふと、細い通路に目が留まった。
石畳の、車がどうにかすれ違う程度の道は人通りも多く、両端にはこじんまりとした一軒間取りの店舗がひしめき合っている。
木椅子で微睡む店員。小さな子供を連れた母親は果物屋の篭を覗き、荷を運ぶ若者が日焼けした額に汗を滲ませ駆けて行く。そんな穏やかな街角の、細々とした品が並ぶ雑貨店と薬屋の間に、奥へと続く細い通路があった。
幅は自転車を押して、人一人がすれ違える程。よくあるビル内店舗なら奥に薄暗い飲食店がありそうだが、何か様子が違う。
トンネルを思わせるように、向こう側がやけに明るい。ビルの裏手に続く抜け道になっているのだろうか。
道沿いに並ぶ家々は増築と改築を無秩序に重ねて、坂道や階段が複雑に入り組む小さな街は、さながら立体迷宮の様相を見せている。下手に迷い込んだなら迷子必至だけれど、それはそれで、行く当てもない旅の途中としては面白い。
そう思い僕は自転車を押しながら、薄暗く狭い通路に足を向けた。入り口の天井近くに、「Cafe Chrysocolla」と小さな看板がある。
「カフェ、クリソコラ……かな?」
カフェと掲げているのなら飲食店があるのだろう。看板を見て喉の渇きを覚えた僕は、わずかな期待を胸に足を進めた。
自転車のカラカラと軽い音が、薄暗い通路に響く。
距離はさほどではない。
「……抜け道では、ない?」
ビル一つ分の通路の先は、空の抜けた長方形の広い空間だった。
四、五階建ての、四方を高い壁に囲まれた箱状の庭に、まだ高い午後の陽射しが降り注いでいる。風はなく、音もなく白く浮かび上がる様はまるで……夢の世界に迷い込んだようだ。
通路の終わりには、彫刻の施された赤い円柱の門があった。形状は鳥居のように見えなくもない。
庭を囲む建物は相当古いらしい。薄く汚れた白壁には細かい罅と瘡蓋のような苔が、斑模様となって浮かんでいた。壁に沿った庭の周囲には、自然に運ばれた種が根を下ろしたのか誰かが植えた物なのか、高く伸びた細い枝の樹が若葉をつけている。
通りの喧騒も届かない。
時折、思い出したように大気が動くのか、微かな葉擦れだけが囁く静寂の中庭で、光と影が踊る。
自転車を押しつつ、一歩一歩進む。空を目指す樹々の根元には、苔生した植木鉢が並んでいた。
小さな花の蕾が目覚めようとしている。
奥の一角には、ちょろちょろと水の流れる水場があった。水受けに置かれているのは、一抱え程の古い水甕だ。葉ばかりの睡蓮が沈み、陰に赤い小さな魚が揺れている。
不思議な空間だった。
床は赤茶けた色のタイルがモザイク模様に並べられ、複雑な柄の絨毯を敷き詰めたようにも見える。目測で幅は七から八メートル、奥行きは十五メートルあまりになるだろうか。目線を上に向けると中庭を渡すように、細い橋がかかっていた。
簡素な手すりは色あせた赤。橋の先はテラスになっていて、暗がりにテーブルと椅子が見える。今は開店前なのか、それともたまたま客入りが無いのか、人の気配は無い。
もう一度ぐるりと見渡すと、壁に沿って備え付けられた階段を見つけた。上ったところがカフェなのかもしれない。邪魔にならないよう階段下に自転車を止めて、バックパックを肩に足を向けた。
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