001 カフェ・クリソコラ

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「春風吹く花の季節だ。行先と帰る場所が定まっている者は、たいていテラスが窓側の席でのんびり景色を眺めているものさ。今のお前さんは眩しすぎるようだね」  カチリ、と音がして小さな炎が上がり水を満たしたケトルがのせられる。ややしてから、軽い、花の香が漂い出した。 「しばらく足を止め、休む場所が必要なんじゃないのかい?」  ちらり、と僕を見る。生気のない顔色をしていただろうか。  視線を落とし、僕は薄く笑う。こんなふうに声をかけれたのは久しぶりだ。 「休むにも、この街には来たばかりで……まだ、どこに何があるのか」 「宿を探しているのなら部屋があるよ」  カチ、と茶器が鳴って湯気が漂った。 「宿代を払ってもらってもいいけれどね、ここで働く、という手もある」 「働く……」 「思考が淀むなら、体だけでも動かしてごらん。ただ流れ流れて身をすり減らすより、気は紛れるだろう」  面白い人だと思った。心を見透かす観察力があるというか。それともただの世話好き。好奇心旺盛な変わり者。もしかすると未来を見通す超能力者。  視線を上げると、細めた瞳が背中を押した。 「一杯の茶で心身を潤すその間、ゆっくりと、考えるがいいさ」  カチリ、と軽い音を立ててテーブルに茶器を置いた。  白地に淡い黄色の花びらを散らした、華やかな模様が刻まれている蓋椀(がいわん)。一呼吸待ってから、女主人は蓋を少しずらして小さな湯呑に茶を注いだ。  華やかな香りが広がり、流れていく。  「どうぞ」とすすめられ、一息かけてから口に含むと、まろやかで温かな茶が身体の芯に下っていった。  春の日差しの中を来たというのに、身体の芯は冷えていたのかもしれない。仄かな苦みと甘みのある香り高い茉莉花は、停滞していた気の巡りを動かしていく。  ゆるりと、どこかで春の花の香りを乗せた風が流れ来た。  かつて夢中になっていたものがあった。  無邪気に信じていたものが信じられなくなり、噛み合わない思いがこじれて、誰にも信じてもらえなくなった。気づけば孤独に絞め殺されるような気がして飛び出してきたんだ。そのまま……一人、風のように漂ってきた。  いっそこの放浪の果てに命を散らせてしまえばいいとすら、思っていたのに……。  自分は何をしたかったのか。どこへ行きたいのか。どこで生きていたいのか。  ――これは、何かの縁なのかもしれない。 「僕は(れい)といいます。あなたを、何と呼べばいいですか?」  カウンターに戻った女主人は瞳を細め、目尻に烏の足跡を深く刻んで答える。 「珪孔雀(クリソコラ)、マスター、ただの世話好き。まぁ……好きなように呼んでおくれ」  春は地に足をつけ、生まれ変わるにちょうといい季節。
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