第二章

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 六月、未だ肌寒さを残し、それを更に続く雨が気温を下げる夏の始まり。夏とも言い切れず春でもない、この中途半端な時期は一番好きな季節ではっきりしない所が自分によく似ていると大槻(おおつき)は自負している。  先程まで降り続けていた雨は漸く止んではいるものの、未だどんよりと重い空は煙が立ち込めているようにも見える。止んだとはいえ流石に晴れ間は見せてはくれないようで、今にもまた雨が降り出してもおかしくはなかった。  彼、大槻圭一郎(おおつきけいいちろう)は終業間際、幼馴染で一桁の頃からの友人である信一(しんいち)から飲みの誘いを受け、いつもの店へと現地集合に向かった。駅までは車で、そこからは電車に乗り継いだ。仕事の事情もあって実に二カ月振りとなる。約束の店は互いの地元、車で片道一時間程度の小さな田舎町だった。  電車の方が速いこともさることながら、なんにしても飲むからには車で出向くわけにはいかなかった。それは自身の警察という職業柄でもあるが、どうせ実家に一泊することにもなる、早朝一時間も車を運転して戻る自信もなかった。  電車で約三、四十分、着いた頃には眠気がさしていて、駅に降りると雨上がりの冷えた空気が嫌に沁みた。視界までもが鮮明になり、一気に冷えた体から眠気が飛んでいくのがハッキリと感じられた程だった。店までは徒歩で向かったが大槻は手ぶらで、よく考えれば傘も持たずに来てしまっていた為、雨のタイミングの良さに感謝した。  久々の地元は戻る度にどこかしらが変わっている。開発途中の町は綺麗に整頓され、余りにも完璧すぎて一寸の狂いもないそれは、長く住み続け、つい近年まで村だったこの地には逆に不釣り合いだった。直された道路や歩道、真新しい大きな建物に反して古い民家も肩を並べていて混じりきらない所がぎこちなく田舎くささを増長している。  しかし、著しく次々と変わって行く。いずれ面影すらなくなるのか、こうしてなにもかもが変わっていってしまうのだろう。  そう考えると、大槻は急激に信一の存在に有難みを感じずにはいられなかった。出会った頃から変わらない信一との関係は稀少だ。友人という存在は年齢と環境によって入れ替わり立ち替わり、長く付き合い続けられる相手は想像以上に得難い。まして子供の頃に出来た友達などというものは九割方続きはしない。実際に友人の中で最も付き合いが長いのが信一で、その後得た友人で今も関係が続いているのは高校生の頃か大学生で、しかし信一程連絡を取り合うこともなく、年齢も伴っての時間のなさもあるが、こうして仕事の合間をぬって会う程でもなかった。  それが信一とだけは、実に二十五年という長い間、一度の危機もなく友人であり続けている。考えれば考える程、大槻にとってその存在がどれだけ大きなものであるかは明確であった。  柄にもなく心温まる感謝の意を考えている内に待ち合わせ場所に辿り着いた頃には二十時を過ぎていて、空も本格的に闇に覆われていた。店に入ると薄暗い店内のカウンター席に見慣れた背中が丸まっていて、それを見るなり大槻は先程まで考えていたことが急に気恥ずかしくなった。 「早いな」  声をかけると振り返る顔は店内が薄暗い所為もあってか随分やつれたように感じられる。思ったことが顔に出てしまっていたのか、大槻を見るなり苦笑いを浮かべるその左隣に腰を下ろすと信一が既に琥珀色の液体が入ったグラスを手元に置いていた為、大槻は追加でもう一つ、同じものを頼んだ。 「圭一(けいいち)、車は?」  幼なじみの屋良信一(やらしんいんち)圭一郎(けいいちろう)という大槻(おおつき)の名前を略して圭一(けいいち)と呼ぶのは信一だけだった。  大槻と同い年の信一はこの小さな町の個人病院、屋良医院の長男で、彼自身も医者の職についており行く行くは医院を継ぐ身である。  信一と出会ったのは三歳の時、町の祭りでだった。祖母が持つ心臓の病繋がりで大槻も頻繁に屋良医院に出入りはしていたものの、顔を合わせ言葉を交わしたのはそれが初めてだった。  祖母と院長の会話の中で紹介された信一は、歳も同じで名前も似ていたこともあってかすぐに打ち解け、その日からは毎日と言っても良い程一緒に遊ぶようになった。  高校までは同じ町の学校に通っていたが、大学となるとお互い目指すものがはっきりとして、選ぶ大学が異なり、会う機会は断然激減した。それまでが毎日一緒だった所為もあるのだろうが、それでも違う地域にいながらも日を合わせてはよく遊んでいた為、端からしたら十分だったかもしれない。  大槻は就いた職業柄この町に戻って来ることは叶わなかったが車で片道一時間の隣の市に住んでいる。信一が大学やら研修やらを終えてこちらに戻って来たのは五年前だったか、当初は勿論まだ慣れてもおらず、特に老人相手では酷くてこずって落ち込んでいることも多かった。その頃の信一は自分の時間や楽しみ、息抜きすらも上手く出来ずにいたがもういい加減立場に慣れたのか、ここ最近はこうして夜、飲みに出られるようにもなった。  大槻の職業などよりも直接他人の命を預かるような医師という職、更には次期院長ともなる信一の立場の方が何倍も忙しない。ましてこんな田舎では老人ばかりで、日常的にやっかいな患者も多い上に死人も多い。心の優しい信一がその環境に慣れるまでにここまでかかったというわけだ。 「あっちの駅に置いて来た。だから今日は実家に帰るよ」 「珍しい。圭一なら乗って来ると思ってた」  困ったように笑う癖は昔からだった。母親に似て線の細い容姿を持つ信一にはそれがどこか似合っていた。医者の不養生というやつか、自分こそ医者に診てもらった方が良いのではないかと言いたくなる時もある。  線の細さに拍車をかけるような薄茶の髪も染めているのではなく、幼い頃からこのままの色をしていて生まれつきだった。屋良家の兄弟は揃って色素が薄い。母親の遺伝のようで、一度だけ見たことのある弟などは殆ど白髪に近かった。 「って、明日仕事に間に合うのか?」 「なんとかなるだろ。始発?」  長い付き合い、もう二十五年、それだけ長く時間を共にしていても話す話題が尽きることはない。寧ろ歳を重ねる毎に話題の範囲が広がっているのではないだろうか。  子供の頃の話題は遊びが基本で昨日観たアニメの話し、明日放送されるアニメ、学校でのこと、殆どが娯楽のものでそれが中学に入る頃には勉強、受験で目指す高校の話しが加わり、音楽のこと、アニメの話しがドラマに変わってそれなりに悩みも出始めた。  高校に入ると更に範囲が増えて、大学になるともっと広がった。そして今ではその全てが懐かしい思い出となって、社会人なりの会話に加え仕事の愚痴を漏らす傍らあの時は、としみじみ語り合うのだ。  この歳にもなれば昔言えなかったことなんかも酒の勢いも借りて意外と素直に切り出せる。あの時実はこう思っていた、実はあれは嘘だったなど、その度にお互いの新しい面が知れていく。  それは限りのない「知り合い」で、幾つも新しい面を晒してくれる信一とだけは関係が続いた理由のひとつだったのかもしれない。 「お前は大丈夫なのか? こんな時間から飲んで」 「うん、八時過ぎてるし、今日は父さんがまだ残ってるしね」 「親父さんが? 頑張るなぁ」  丁度頼んだ酒が大槻の手元に出た時だ、信一を見ると一瞬まるで黄昏でもするかのように意識の遠い表情をしていた。それは本当に一瞬ではあったが、あまり見ることのない信一の生気を殺がれた表情は見逃せるはずもなかった。  きっとまた誰かが死んだのだろう、そんな程度で大槻はグラス手に琥珀色の液体をひと舐めした。 「やっぱり人が死んでしまうのは慣れないよ。医者は慣れなきゃいけないんだろうけど、勿論死そのものにではなくて、その局面に。切り替えないと次に診る人に集中出来ないっていうのに……なんて言うかなぁ、医師として働いている内だけでも、情のない人間になれてしまえばいいのに」 「また、誰か亡くなったのか?」 「俺がこっちに戻って来た時からうちにかかってた人で、もうお年寄りだからそもそも寿命だったのかもしれないんだけどね。心臓が悪くて、うちみたいな小さな医院じゃなくて、もっと大きな病院にかかった方がいいって父さんからも俺からも言ってたんだけど、どうしても父さんじゃなきゃ嫌だって聞かなくて」 「そっか……最近多いな。まぁ、老人ばっかな過疎真っ最中の田舎町じゃありがちか。そういやこの前飲んだ日もそうだったよな? 夏だしなぁ……続いてんのか」 「そんな言い方して……まぁそんな世代の人が多いし、なんと言っても皆うちに依存しすぎなんだ。ことが重大だって説明したって医院があるからいいとか、うちじゃ無理だって言ってるのに」  心底疲れた様子の溜め息は計り知れなく深い。  無理もなかった、閉鎖的な村で半世紀近く過ごしてきた年代の人間というものは老人ならではの頑固さに加え迷信にも似た知識を豊富に持つ。健康にはこうしていればいい、これ位なら病院の手もいらないだとか、村という集団の中で湧き出た迷信的なものに過ぎないのだが、「これをやっていてもうこの歳まで生きたんだ、だから効いている」などと妙に偏屈で、その時代最新の医療というものを受け入れない節がある。  大槻の祖父もそうだった。祖母から伝え聞いた話だが大槻がまだ生まれていない頃、祖母は屋良医院も病院というものも柔軟に受け入れることが出来たのだが祖父だけは頑として屋良医院の治療を受けることを拒み続けたという。  その頑固さも度を超していて、遂には屋良医院が村に出来た年から生涯医師の手にかかることなく終えてしまった。  祖父が自宅で倒れた時、家族は皆屋良医院に連れて行こうとしたが祖父は苦しむその状態ですら拒み続け、最終的には屋良院長を自宅に呼び寄せる羽目になった。  しかし当然、院長が訪れた時には最早手の施しようもなかった。家族と院長で揃っていてもなにも出来やしない、そのまま息を引き取る祖父。自宅で看取ったのだと大槻は聞いている。  その時の院長の悔しそうな姿は今でも忘れられないと母は言う。院長の最善ではなかった。きっと、祖父が拒まなければなにか出来ていたこともあったのだろう。  当時も当時だが、この時代になってもこの町の住人は未だに偏った考えを持ったままらしい。院長も相当の苦労をしただろう。なにせ救えるはずだった命も、一度の問診もなく看取る状態なのだ。  信一が院長になる頃にはどうか今の状況も改善して欲しい。もしも変わらない状態のままであろうものなら、恐らく優しすぎる信一は一年と保たないだろう。 「お前も厄介な仕事に就いたもんだな」 「厄介な〝家系〟かもしれないね」  笑い声を上げると伝わる振動で手元のグラスの中、氷が沈んでカランと音を立てて回った。
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