第二章

3/15
前へ
/44ページ
次へ
 数時間、飲み終えた頃には危うく翌日を迎えてしまう所だった。信一の職業柄切り上げは早いにこしたことはない。加えて今日は大槻自身も早々に休まねば明日の朝はいつもより二時間は早く起きなければならない。  酔いを醒ます為にも徒歩で帰路を歩んだ。この町にもタクシーはあるにはあるのだが、この時間帯には既に営業を終えていて電話すらも通じない。  珍しく上がったままの雨は夜になっても降り出すことはなく、更には田舎ならではの星空が広がり随分と張り切ったものだった。  近隣に住んでいてもこの町の星空のような凄みは見ることが出来ない。見渡す限りにちりばめられた小さな光が大きさに反して強い光で存在している。どの空にもあるはずなのに、少しの距離でこれ程違う。そもそもこれが当たり前で、大槻は町を離れるまで空にここまでの差があるとは思ってもみなかった。  水気を含み冴えた夜風は心地良く酔いの火照りを飛ばしてくれる。どことなく清々しい気分で、普段はしないような道路のど真ん中を歩いてみたり年甲斐もないことをして楽しんだ。これも現在自分の住む近隣では出来るわけもない、これも田舎だからこそ、だ。  建物よりも逞しく伸びる木々が少ない街灯の光を受けて青々と発光したように見える。どこか作り物じみて見えるはずなのに、酔いの所為か葉は昼に見るよりも輪郭がはっきりとして美しい色に思えた。 「帰ったら仕事しなきゃ」 「なんだよ、やっぱ仕事残ってんのか」 「紙に目を通す程度だから」  少し先を行く信一は腕を前に伸びをして笑う。  この友は、一体いつ休暇というものを過ごしているのだろうか。自分と飲む時間があれば少しでも身体を休めて欲しいものだが、正直、大槻はその貴重な時間を自分に割いてくれていることが嬉しい気もしていた。 「お前は真面目過ぎなんだよ、少しは気ぃ休めろよ」 「分かってるよ」  点々と照らされる道の先に信一の自宅が見えてきた。屋良医院の裏手に隣接する屋良家、医院は海側に面した道路側で、自宅はその道路の続きとなる坂道に面している。上空から見た形で表すと反転して時計回りに百八十度回転させたL字に似ていて、長い方が医院、短い方が自宅となる。  信一は仕事の関係もあって今でも実家で暮らしている。院長の父と、歳の離れた弟と、三人で。  信一が十二歳の時に母親が他界してから、ずっと。  身体が弱かった所為でその数年前から医院には殆どいなかった。病院なのだから医院にいるのが最善なのではないかと感じたが勿論そんなことを当時理解出来るはずもなく、まして大人が決めたことに疑問を抱く考えもなかった。  今思えば老人の相手で大変な夫に負担をかけまいと配慮でもしていたのかもしれない。大槻の記憶にも残る信一の母親は、頼りなくか弱い、優しい人だった。逆を言えば、優しい姿以外の記憶はなにも残っていなかった。 「じゃあ、無理すんなよ」 「分かってるよ、大丈夫」  屋良家の前、大槻の実家はこの左手に伸びる坂道を行った少し先になる。  外灯に照らされた辺りは他の場所よりも明るい。しかし反して立派な門構えの屋良家自体は静寂そのものだった。 「信一」  「じゃあ」と惜しむわけでもなく、信一は門に手を掛け、大槻もまた実家へと続く坂道に体を向けかけた時だった。ふと三つの表札が目に入り、なにかを考える前には呼び止めてしまっていた。 「(みさき)君は元気か?」  なんの気なく、問うた言葉だった。  身体が弱いと聞く弟は今どうなのかを、恐らく上司に「お子さんはお元気ですか?」と聞く社交辞令じみた感覚だった。  しかし振り返る信一の表情があまりにも意外なもので、大槻は自ら発して得たその応えに一切の反応を返せないまま、信一の姿は扉で遮られて欠けた。 「昔よりはよく笑うよ」  そう言って信一は視界から消えた。何故か、安堵と喜びに悲しさを帯びた笑みを向けて。  坂を登り、煙草の赤い箱を取り出し風で揺らぐ炎で漸く煙草に火を点けると大槻は一気に吸い込んだ。  緩い坂道、登り慣れた道がどこか別のものに感じる程気が重く感じた。  あの信一の表情は、弟の具合が芳しくないという表れなのか。信一のあんな表情を見たのはいつ以来だったか、確か二十歳の夏、あの時も信一はあれと似た表情を見せていた。あの時には弟の岬の姿もあった。やはり、そうなのか。  胸が痛んだ。日々仕事とはいえ人の死に接する立場の信一にとって身体の弱い弟の存在はかくも重いものだろう。なにせ母親も体が弱かった。弟もまた母親と同じようにと、その真実が過らないとも言い切れないのではないだろうか。  まして近頃は町の人間も次々と倒れていく。今日も、前回飲みに出た時もだ。二カ月前の四月に――…… 「…………」  瞬間、大槻は違和感を感じた。  二カ月前、二カ月。そうだ、よく考えれば信一から誘いがあって飲みに出掛けるのは決まって二カ月置きになっている。  今まで考えてもみなかったが、なにか本人のリズムというか、あの生真面目な性格だ、決まりでもあるのかもしれない。今回は六月、前回は四月、その前は二月、一月にも飲んだか、いや、一月のは正月休みで思えば随分頻繁に――…… 「……?」  くわえた煙草が、力の入らない唇から落ちてしまいそうで、すんでの所で指に挟んだ。前回会った四月にも今日と同じく訃報を聞いたのを思い出したからだった。  二カ月前の四月、町に唯一の高校、如月高校の生徒が死亡している。まだ子供なのにと、信一と嘆いた記憶がある。あの日は随分と湿っぽい飲み方になったのを鮮明に覚えていた。 「……如月……?」  如月高校と言えば二年前にも生徒が死亡している。そういえばその日も信一とあの店で飲んでいた。  出来たばかりの如月は当時話題にも新鮮で、遅くまでその話しで盛り上がった挙げ句翌日目覚めると三時間もの寝坊をして自棄になり、仮病を使って仕事を休んだが帰路の電車内で有給中の上司とかち合い酷く叱られた記憶がまざまざと残っているから確かである。  その後にも大槻の母の友人が他界し、葬儀に参列する為町に戻って来た日も信一と飲んでいる。実に、如月の生徒の死から、約「二カ月後」に。  これはなんの一致だ。確か大槻も会う度訃報を聞くようになり「なんでそんな日に呼び出すんだよ」とふざけ半分に言った覚えもある。その時、信一はなんと言ったか。「だからこそ呼ぶんだ」、確か、そんなことを言っていた気がする。  今日のように終業間際、信一にあの店に誘われた日、それらは確実に町の人間の訃報を聞いているのではないか。誘われた間隔などは流石に全てを把握することは出来ていない。町の人間の死亡記録を確認出来れば確実だろうが職権を乱用しでで出来ることでもない。けれど思い出せる範囲、ほぼ「二カ月」置きに信一が大槻を呼び出し、その日ひ必ず訃報を聞いているということは。  小さな町で過疎と高齢化も進み、必然と死者が多いのであろうことは大槻にもわかっていた。つまり信一が大槻を呼び出さない内でも町の人間は死亡している。しかし、信一が呼び出す際には決まって〝前回〟から「二カ月」に当てはまっていやしないか。  その「二カ月」が信一にとって我慢の限界、耐えられる限界なだけなのかもしれない。けれど、この奇妙な感覚はなにか。全身から酒の気が抜ける。ほんの一瞬の思考の力で。  折角火を点した真新しい煙草は殆ど吸うこともなく、既にフィルター付近まで灰と化し、たなびく風に吹かれ散っている。 「……二カ月」  風が止まった。来た道を振り返ると眼下の屋良家、暗闇に白い建物が不気味に淀む。 「…………?」  視界が暗闇に定まると屋良医院の白い壁に更にはっきりとした白が浮かび上がった瞬間があった。あんな所になにがあっただろうさ。なにかと目をこらし、眉根を寄せてまでじっくりと観察してみると白壁よりも明るく見える白は、実際には灰色だとわかった。  人だ、あれは、如月の制服だ。  それは屋良家ではなく、背後の屋良医院を眺めているように見える。頭が傾き、顎を上げているからだ。しかし顔までは窺えない。ぼんやりと、漠然とそう見える程度なのだ。 (なんだ……?)  指先が熱くなる程短くなった煙草もそのままに来た道を歩み返していた。風に吹かれた煙が闇に舞い、次第にその歩は早まる。何故だろう、嫌な感覚が走った。  しかし風が向かい風になり、煙が目に沁みて鬱陶しくなって煙草を捨てようとしたと同時にその人物は俯き、去って行った。気味の悪さが残ったが、それを追う気にはなれなかった。寧ろ脱力に近い感覚にも思える。  煙草を地面に放り、そのまま坂を下り、屋良家門前で周囲を見渡したが先の人物はもうどこにも見当たらなかった。あの人物はなにを見ていたのか、同じように見上げてみても当然建物以外には何もない。  そういえば、この風景を以前にも見たことがある。いつ、そうだ、信一が今日と同じあの表情を見せた日、二十歳の夏だった。 ――昔よりはよく笑うよ――  実際に信一の弟である岬を見たのはたった一度、八年前、岬は十歳だった。  約束をしていた時間に信一をこの門前に車を停めて待っていた時、いつ出てくるかと車の中から玄関を見つめていると漸く出て来た信一の背後について歩く殆ど白髪の少年。子供なのに髪が白いということと、気にする様子もない信一を見てもしや自分にだけ見えているのではと驚いた。  するとこちらの異変に気付いた信一が背後を振り返り、そこでははっきりと驚いた様子で慌てて少年を隠し、家の中へと押し込んだ。  暫くしてから、動揺を隠しきれないまま助手席に乗り込んだ信一に、大槻は至って当然の問いかけをした。 「今のは?」 「弟」  なんでもないかのように答える信一に、三歳からの付き合いで初めて見聞きしたその事実に察した自分は、それ以上問い詰めはしなかった。  それが、大槻が初めて岬を見た日だった。初めて、三歳からの付き合いである信一の弟を見た、最初の日だった。  海沿いに建てられた白い建物、村の救世主でありこの町の住人達にとって絶対の存在、屋良医院。  そして同じ敷地内に存在する屋良家。その表札、他とは明らかに違う、真新しい木に彫られた名前。  屋良 岬  その名は、八年前にそこにはなかった。
/44ページ

最初のコメントを投稿しよう!

17人が本棚に入れています
本棚に追加