第二章

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   翌朝、高校生ぶりに母親にたたき起こされた大槻は無事に始発の電車で自宅へと戻った。  よくよく考えれば実家から直接職場へ向かえるだけの準備をしていたらよかったことには電車に大分揺られた後に気が付いて、これから自宅へ戻ってから出勤の準備をするより余程賢いやり方なのに、帰路まで考えもつかなかったことを悔いて仕方ない。電車で四十分程、そこから車で数分、準備をしてまた車で職場へ十分程、余計な手間を増やしていただけだとは。  凡そ一日ぶりの自宅が何故だか自分のものではないような感覚がある。日数単位で家を空けると必ず陥るこの感覚はなんなのだろうか。大槻は昨日の朝と変わらない出勤準備を整えてすぐに自宅を出た。 「大槻」  出勤するや否や、既に席についていた上司が扉をくぐる前に大槻を呼び寄せた。血縁でもあるこの上司は、仕事内では甥を大槻呼び、仕事外では圭一郎と名前で呼ぶ。コネもあってこの職に就いたことは間違いないのだが、だからこそかそうした所をはっきりさせているようだった。 「早いですね、なんかありました?」 「地元で自殺があった」  つい先ほどまで抜けきっていない酒でふわふわしていた思考が急激に晴れていった。叔父と自分の地元は同じ、ここから電車で四十分程、つい先ほどまで大槻がいた、その町だ。 「地元? 誰です」 「如月高校でだ」 「いつです? 生徒ですか、教員ですか」 「ほんの五、六分前。出てきた奴から順にもう向かってもらってる。話しは車ん中でいい、お前もすぐ出てもらえるか」 「……はい」  ほんの数時間前まで自身がいた町で、その数時間の間に一体なにが起きたというのか。大槻の頭の中には心優しき幼馴染の顔が浮かぶ。憂う表情が焼き付いて、署から出るまで、大槻はどこか上の空のままだった。  あんなにもなにもない、どこから見ても変哲もない片田舎、開発途中なばかりで人が増えるわけでもない。そんな場所で自殺とは、あの町では一大事だ。  穏やかな緑と、空気の澄む海に囲まれた町、しかし、思い浮かべたあの親子には自殺をする理由もある。  手のひらがざわざわと蠢いているようだ。叔父が言わなかった上、大槻にも向かうよう促したところからもそこには関係のない人物が死んだのだろう。わかる、わかってはいるのだが、ざわついた体は現場に到着しても尚、続いた。  殆どトンボ返りでまたも訪れた地元はうって変わって騒々しさに包まれていた。大槻が地元を出る頃に降り始めた小雨は既に本格的なものとなり、荒れる空気を洗い流す勢いでもあるはずがこの喧騒は流れ切りそうにもない。  大勢の警察、救急関係者と高校関係者、そして保護者達が校舎を取り囲んでいる。この町の全ての人間が集まったような気さえもする大勢には見知った顔も幾つかあって、その中には到底この高校の在学生とは関係のない老人も混じっている。こんな所まで、こんな時にまでかと大槻は頭の中で毒づかずにはいられなかった。  停めた車から高校に入るまでで大分濡れてしまったがこの状況では誰もが同じ有様で気にする者もいなかった。それでも心理的な問題か、大槻は校内へと一直線に駆け込んだ。  用意されている数はまだ足りているようで、よく見る合皮の安っぽいスリッパが広い職員玄関に並べられていた。緑だったり、茶色だったり、一律でない色の具合が何故だかとても学校らしさを感じて懐かしくなる。大槻が直接現場に入ることはないが、それを履いて上司と二名の同僚と共に校内に上がった。  現場を見る役目の関係者はまだのようで、他の人員が現場の確保、保全をして、それ以外の者は校内を巡っているようだった。校長や教頭と話す者やら、大槻の部署とはかけ離れた彼らは恐らくまだ到着出来ていないのではなかろうか。こんな辺鄙な町ではそういった挙動も遅れがちになる、その為の大槻達近隣署員なのだ。  どうやら先に到着していた人員が校内各所に散らばっているようで、大槻一行はこれから体育館に集められ、その後解散となる生徒への同行となった。なにせまだ全容が見えない。生徒の中に不審な行動をとる者が絶対にいないということもない。そして外部からの何らかの刺激にも対応しなければならなかった。自殺となれば、ことによってはそれなりにメディアが現れることもあるからだ。  十数年前、大槻もこの町の高校に通っていたが当時はまだこの如月高校ではなく、前身の古い高校に通っていた。  話題には幾らでも上がったとはいえ今現在現役で通う身内もいない。噂の如月高校に初めて足を踏み入れた感想としては病院のような印象だと感じていた。都会でよく見る病院のような、取り繕った最先端と、嫌味な清潔感とでもいうか。一言、この高校が新しすぎてそう感じているだけなのだろうが。それにしても大槻の持つ学校のイメージとはかけ離れたものが現在の学校に必要となっているのだなと、正直哀愁は感じた。  広い校内を歩いて、体育館へと続く独特の長い廊下へと差し掛かるとその曲がり角には既に違う関係者が立っていた為、大槻は少し離れた廊下に構えて生徒の列を待った。  上司と同僚の二人は体育館内の様子を確認しに向かって視界から消えた。学校の廊下に佇む場違いな大人の所為でやけに奇妙な空気か漂い原因とは少々異なった物騒さがあった。  外が騒がしい。校内が騒がしいのも最もだが、これだけ降る雨の音にも負けない騒がしさが時折その合間をぬって大槻の耳にも届く。  雨音が邪魔をして互いに聞こえにくい所為で叫んでいるのであろう声、トーンがひと際高いものは保護者のものだろう。それはそうだ、こんな状況になっては心配の限度も超えてしまう。  いざ仕事についてからか、そういえばいつからなのかあれ程大槻が感じていたざわつきはいつの間にかなくなっていた。手のひらにあった違和感も、気が付けば消えている。高校内に入って、自分の身内や知り合い、幼馴染が関係ないのをはっきり認識した所為かもしれない。なんとも、よくない反応だ。まして自分の職業でこんなことはと大槻は感じたが、それでも近すぎる場所で起こった死は肝を冷やしたし、不安で仕方がなかった。  いや、不安は続くかもしれない。  もし、死体が信一の元に運ばれたとしたら。  なにもかもがあり得ないというわけではない。自殺の状況によっては、大雨の状況によっては。恐らくいらない不安を考え続けているのだろう。それでもやはり、あの心優しき幼馴染にこれ以上の死を近づけたくなかった。  やがて遠くから生徒の列が向かって来るのが見えた。大勢の足音と、生徒のものも、教師のものも僅かながら話し声が聞こえる。  大槻は思い出したように身を正した。意識して背筋を伸ばし、反対側に立つ関係者に目配せをし、自らも律した。そうして迎えた生徒の列を、何人も、何列も見送った。若い彼等が皆葬儀にでも参列しているかのような面持ちで、その脇で仕事をしていることに少しながら申し訳なさも感じた。  全ての生徒が体育館に集められ、マイクで発せられる校長の声は館外の大槻達にも届いていた。昔を思い出す、勿論こんなにも重大な話題ではなかったが校長という話の長い存在というのはこの時世にもまだ健在であったようだ。言葉をやたらに選んでいる所為なのか、遠回りをして、遠回りをして、結果ストレートな着地点になってしまっている。  しかし、今この状況ではどんな言葉であろうと生徒達の中に残るのは端々の鋭利な言葉のみであろう。  生徒が、同級生が死んだこと。病死で一人、転落して一人。  この期に及んで、この言葉には動揺した。  ほんの少しの間を置いて表情を同じくした上司もわざわざ体育館から出て大槻の元に現れ、目配せで問いかけて来た。「知っていたか」と。  現場に到着してからではあるが、大槻は数時間前まで町にいたことを上司に伝えていたのだ。勿論、共にいた同僚の前ではなんとなく言い出しにくかった為、二人になった際に。  大槻にとっては地元で、仲の良い幼馴染の存在も知っていた上司はこれと言ってなにも言わなかったが、こうなると話は別だった。なにせ、幼馴染の信一は屋良医院の息子で、信一自身もその医院で医者として働いている身なのだ。つまり、先日に亡くなったというもう一人の生徒は、屋良医院と関わっているに違いなかった。  病死ともなれば少なからず生前に屋良医院と関わったはずで、亡くなった生徒には屋良医院に関わる理由があった。なによりこの町の住人であればそれは当たり前で当然のこと。  しかし大槻にとってそれよりも気がかりであるのは、昨夜会った幼馴染がその生徒の死を知っていたのかというところにあった。  今しがた大槻の得た情報では亡くなった生徒と幼馴染が関わっていたのは確実で、その幼馴染と大槻は昨夜会い、数時間を共にしたいた。  確かに、その生徒の話は出て来なかったとはいえ最近も亡くなった住人がいてそれで悩んでいた様子もあった。だが、いや。  大槻は自分自身に言い聞かせるように頭を振った。  恐らく、困惑を隠しきれていなかった。上司は暫し大槻を見やった後、上司自身もまた同じように頭を左右に振ってなにかを払拭している仕草をとった。上司と言えど大槻の叔父で、勿論この町が地元で出身なのだ。屋良医院のことも、大槻の幼馴染が信一であり、彼が屋良医院の息子であることも昨夜会っていたことも大槻の口から知っていた。  互いに混乱している。転落した生徒の件も、勿論だ。しかし大槻にも、上司にとっても病死した生徒の件が自分自身に近い問題となった以上、どうにもならないのが事実だった。  上司が大槻に何も言えぬままでいると体育館の扉が開き、戻る隙をなくした上司が生徒の列を挟んで大槻の向かいに立った。目の前を過ぎて行く生徒達とは違った問題で互いにとても神妙な顔つきになっていたかもしれないが、この場に場違いではないだけ馴染んではいた。  数列の生徒を見届けた頃、大槻はなにかに違和感を感じ我に返った。  急激に視界が鮮明になったような感覚だった。その違和感を追って視線を動かしたのだが、幾つも並ぶ同じ色の塊に紛れて消えてしまってもう一度探しきることは出来なかった。  今、自分はなにに違和感を持ったのか。大槻は考えたが、それも過ぎる灰色の中に流され消えた。
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