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思ったよりも早くに如月を出ることになったのは生徒を帰してからほんの一時間程のことだった。
生徒もその保護者もあれ以上の混乱もなく、実にスムーズに帰路へとついてくれたお陰だった。
きっと、必要以上の混乱になるのだろうと思っていた。大槻自身がまだこの町で暮らしていた頃、ほんの小さな火事でも住人達は野次馬し、必要のない集まりをしていたのを見てきていた。今回もそうなのであろうと高をくくっていたのだが、あの頃から比べて随分と落ち着いてそういった習慣もなくなったよう。中途半端に開発されたぎこちないだけの町では、もうないようだった。住人の心境すらも思いのほか閉鎖的な田舎から抜け出して進んでいたのかもしれない。
署に戻るのは大槻と同僚だけで、上司だけはまだ如月に残った。町に詳しい人間も少なからず必要だったこともあるが、鑑識や担当部署の人間が到着して人手は足りてしまっていた。あまり人が多いのもよろしくはない、けれど万が一それでも足りない場合にもう一度呼ばれるという形で、大槻と同僚は引き上げる羽目となったのだ。
こういった時立場が弱いのは、もうどうしようもない。従う他もないので素直に車のエンジンをかけた。
上司は恐らく電車で帰って来るか、道中で他部署の者に乗せて来てもらうのだろう。一応は呼ばれる準備もしておこうと話し合い、大槻がその役目を買った為この帰路の運転は同僚が買ってくれていた。
大槻よりひとつ若い同僚は未だ下っ端感が抜けない。それは人柄もあってなのだろうが、こうして運転まで自ら引き受けてくれるのは今だけでなく相当に有り難い。機会が多い所為もあるのだろうが運転も上手く、余計な揺れもない車内は快適で大槻は居心地よく助手席で流れる地元の景色を眺め続けていた。
住宅地を抜けると大通りは海側へと出る。雨模様の海は時化てはおらず、随分と静かに凪いでいた。空の雨雲と雨で濁った海の色の境は殆どない。なんとなくの色味の差で、濃淡だけで境界が知れてはいるが。
開発で変わる町の風景とは反して流石に海の眺めに変化はなかった。幼い頃からずっと、砂浜も、平仮名で書かれた〝ごみはもちかえりましょう〟の立て看板も未だ変わることはない。
大通りに面した歩道は綺麗になったが、眺め自体を遮るものは増えていなかった。景観の保全か、予算がないわけでもなくそうなのであれば、この景色は町の宝であるかもしれない。
凪いだ海はいい。見ているだけで心も穏やかになる。今しがたの喧騒も丸ごと飲み込んで流して消してくれるかのようだった。
このまま静かになってくれたらいい。この後必ず考えなければならない多くのものも、いっそ流れてしまえばその必要も、そこから生まれる不和も、何一つ必要はなくなる。その方がいいことも、あるはずだ。
考えては浮かぶ状況が、それぞれ違うものであるはずなのに同じ顔ばかりが浮かぶ。
その度に頭を振って掻き消してを何度も繰り返したが変化する見込みもなく、やがて海の底に沈めるようにこの時だけはと自身の中で責任を放棄した。
次第に青みのある濃い灰色の海に微睡むような感覚の中、大槻の視界にひと際白い塊が入り込んで来た。それは大槻の現状では異物であったがこの町にいる限りでは当然の存在でもあった。
車が過ぎる間際、大槻は鮮明になった視界でその存在を追った。深く腰掛けていた背中も離れ、追い過ぎたその道さえも振り返って存在を追った。
「今の生徒見ました? 染めてんのかな、あの髪」
「こんな町にもあんな髪、いるんですね」同僚がそう言って、大槻は背もたれに背中を戻して意識して止めていた呼吸を吐き戻した。
大昔、彼の兄もまた、そんなことを大人によく言われていたのを思い出したからだった。
「地毛だよ、あれは」
灰色の制服に信一とよく似た線の細さ、色素の薄さ。それは母親譲りで、兄弟揃って同じだった。
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