第二章

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 あの日は、どうだったか。  この町の、この同じ会館で行われた葬儀は今日のものとはまるで別物だった気がするのは今日とは違って自分もまた当事者であった自覚からだろうか。内側から見ていても異質であった、子供の目で見ても、悲しむ人とそうでない人のあまりの差が目に余るだけ。  十年も住んでいない、まして住人と深い関係があったわけでもない。そんな信一の母親の葬儀に涙を流していた町の者はいなかった。  隔てるような見えないなにかがあって泣き憂い、大人があんなにも小さく見えるのかと思っていたのも後々理解した。あれは母方の親族であって、町の人間などではなかったからだ。  喪主として泣いている場合ではなくなってしまった屋良院長は当時から勿論強い人ではあったが、あの日からその方向性はどこか違うものになったように大槻は感じていた。  信一も、泣かなかった。  葬儀中、一度として涙は見せなかったがずっと難しい顔をして、目の前で頭を下げていく大人を相手に、誰の顔も目も見返すこともしなかった。  大槻は知っていた、信一が泣いたのは葬儀も何もかもが終わった数十日後だということを。  家の中を出入りする顔見知りと知りもしない大人にも、それまで関わりなど持ったこともない町の人間が取り仕切る葬儀にも、信一はあらゆるものに怒っていた。誰とも口をきかず、誰も知った口しかきけない大切な母親を思って、ひたすら長い時間黙り、一人で怒っていたのだ。  その信一が泣いたのは、ぱたりと人の出入りもなにもかもがなくなった頃だった。  大槻は幼馴染で、誰よりも仲が良かったこともあって学校のおたよりや休んでいる間のプリント、ノートすらも信一の分を書いて家まで届けていた。  あの日もそうして信一の部屋に行ったが見当たらず、家中を探したが遂にどこにもその姿を見つけられなかった。  相変わらず忙しそうな屋良院長にもその事実を言えなかった大槻は大慌てで信一を探した。家、医院、庭、海辺、どこを探してもやはり見つけられなかった。  途方に暮れて屋良医院に戻った頃には既に空は暗く、焦りと恐怖で涙が止まらなくなったのを覚えている。信一が見つからないことにも、大槻がなにかしでかしたわけでもなかったのだが屋良院長になんと言ったら良いのかもわからず、ひたすら泣いた。  こんなに暗くなって信一は一人でどこにいるのか、母親も死んでしまったばかりで悲しくないわけもない。今考えるとわかる、幼馴染の母親の死というものがあまりに近すぎて、子供ながらに信一までもがいなくなってしまうのではと怯えてもいたのだ。  起こったことも、そこからここまでの信一の様子や行動、なにもかもが不安だった。大槻自身の心も、あの日、堰を切ったのだ。  物心もついた年齢だったが、あの時ばかりは困り果てた。渡すはずだったプリントもノートも握りしめてぐしゃぐしゃに潰れてしまった。そんなことにすら涙はとめどなく流れて、遂に屋良医院前の道路に座り込んだ。どうしよう、信一が、どうしよう、そんなことを呟いていたと思う。  ひとしきり泣いてから屋良医院を見上げた時だ。知らない場所に明かりがついていたのを発見したのは。  そこは医院と自宅を繋ぐ廊下の自宅側、注意深く見ていた試しもなく、そんな所に窓があるなんてこの時まで認識もしていなかった。  時間的にも、煌々と照る医院を見ても屋良院長はまだ自宅には戻っていない。考えもなく、次の瞬間には既に、大槻は叫んでいた。 「信一!!」  丸い、小さな窓に映る人影は大人のものではなく、顔を覗かせたのは信一本人であった。  安堵で声ともため息ともつかないものが漏れて、途端体から力が抜けたのを覚えている。  大槻が気の抜けた体でやっと立ち上がった頃に信一が窓を開けた。お互い真っ赤な目を腫らして、お互いの顔を見るなり更に泣いた。 「今、そっち行くから!」  この時までその窓の存在も知らず道もわからない部屋に走った。家の中を迷って少し、「圭一!」と精一杯張った声を頼りに辿り着いた場所は信一の部屋の隣で、頭上から漏れる明かりで天井へ梯子が伸びているのが見えた。そんな所にいたのかと思うのと同時、沢山の感情が溢れ出し、それは信一も同じで、二人で泣き崩れた。  嗚咽で殆どなにを言っているのかもわからないまま、お互い我慢の全てを垂れ流して泣いた。 それだけの感情が渦巻くのだ、人の死というものは。  葬儀というものは象徴ではあるのだが、本当の感情の渦はこの後だ。全て終わって人の出入りがなくなった後、それが多少の覚悟のある親やその上の世代ではなく、まだまだ子供である時点、大槻には計り知れない。  あの時大槻の身に起きたものよりも、この家族は辛く大きな試練であるはずだ。それしか、わからないのだが。  詰まる思いで空ろに眺めていると、視界の端に目当ての人物が入り込んだのがわかった。敷地の外、それでも目立つ薄茶の頭が、静かに佇んでいた。  葬儀も出棺を終え、参列者が次々と門を出て行く。大槻もその流れに沿って会館を出るが薄茶の頭は微動だにせずその場に留まったままでいる。あまりに呆然としている様に横を通り過ぎた如月の生徒がほんの僅かに戸惑った様子を見せていた程だった。  視界に入ってはいるはずなのだが、未だにこちらに気が付かない。じっと、食い入るように会館を見つめている。 「おい」  声をかけると木が人間にでもなったようだった。急に人間らしくなったとでも言うべきか、酷く疲れた表情は前回会った時よりも更にやつれたようにも見えた。 「顔ひでぇぞ」 「いや、まあね……」  流石に口を出た苦言にも信一は疲れた表情を揺らす程度の様子だった。これから聞く前提ではあるが、やはり川村司が亡くなったことが相当こたえているのだろう。なにせ自分の弟と変わらない年齢で、老人のそれとは受ける衝撃も違うはずだ。  亡くなってしまった人間の傍では、なにをどう言葉にしても不謹慎に感じてしまう。大槻も信一も、互いに口ごもり、妙な空気が流れていく。 「行こうか。ご家族にはもう、父さんと挨拶をさせてもらっているし」  振り払うように、信一は踵を返し、大槻もそれに続いた。  田舎の狭い町中、会館から屋良医院まではそう遠くもなく徒歩で帰路を辿った。途中、大槻の実家にも寄って泊まりに必要なものを揃えていった。これまで実家に帰った際に忘れていったものを受け取る口実にもなり、手ぶらで来た大槻には紙袋二つ分の荷物が追加され、無精さに信一がやけに笑った。  大人になって、久しぶりに訪れた息子の幼馴染という存在に沸いた大槻の実家はあれもこれもとビニール袋三つ分の土産を持たせ、親戚から貰った野菜だの、果物だの、箱に入ったままのビールまでを寄越そうとするのは大槻も流石に止めたが、時既に遅く、もう十分に大荷物となっていた。 「圭一のお母さん、そんなに久しぶりに会った感じではないんだけどな」 「家に来たのが大歓迎なんだろ。そんな三十前になってまで家に閉じこもって遊ぶかよ」 「今日やるだろ」 「こういうのはちげぇんだよ」  道中、互いに重い腕をぶら下げて進む足取りは緩やかで、時間の流れすらも違うかのように思えた。今日はこのまま穏やかに進んで終わってしまえばいい。今日も、明日も、来月も、ずっと。  しかし信一に問わねばならない数々が若い命に関係する限りは、平穏を望むのも愚かしい。その瞬間だけでいい、まるで他人行儀にでも警察という自分に対してくれたら。  葬儀の日に限って晴れ渡る空は梅雨を越え初夏をにおわせる。  薄い水色の空には白い雲が張り付いているような印象だ。夏直前のこの空になんとかという名前があったような気がする。いつかどこかでそんな話を聞いたはずだが、そんなことを知っているのも大槻にそんなことを教えるのも、酔いしれていた頃の過去の恋人か信一くらいなものだった。  屋良医院に降りる坂道は長く、急すぎないのが逆に辛い。下りで見える景色は空と海に白い屋良医院が計算されたように取り込まれている。子供の頃は見えている景色に一向に辿り着かない気がしていたが、大人になった今では勿論そんなこともなく、いい加減に足が辛くなってきたと感じた頃には既に辿り着いていた。 「なんか思ったより混んでるな」  医院裏の自宅の鍵を開けながら信一が呟き、その視線を辿ると十五台程が停まれる駐車場に六台の車が停車していた。この町で車がこれだけ停まっているということは徒歩で通う老人の数を考え混雑しているに違いなかった。 「家の中で好きにしてて。どうせ寝るだろ? 圭一」 「まあ、そのつもりだったからな。晩飯まで好きにしとくわ」  院長の手伝いに出るのだろうことを察して大槻は特に問いだすこともしなかった。互いに家に上がり、部屋で信一が着替えて出て行く前に脱いだ喪服を放り投げた大槻は間もなく眠りについていた。
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