第二章

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 懐かしい、変わらぬ香りに包まれての安心もあるだろう。この頃の疲労も重なって大槻が目を覚ましたのは七時間後で、部屋の中も窓の外もすっかり暗がりが広がっていた。  信一が部屋の扉を開けた音で目覚め、明かりはなくとも視界が働く程の光源はあって、時計を確認した大槻はこんなに長く自分が眠っていたことではなく真面目にこんな時間まで働いたのであろう信一の行動に呆気にとられた。 「ウソだろお前……働きすぎだ……」 「いや、流石に医院も五時には閉まってるから。飯出来たぞ、呼びに来たんだ」 「いやウソだろ、仕事終わって飯まで作って来たってか。嫁かよ。今時そんなの辛いわ」 「嫁もいなけりゃ母親もいないんじゃ俺が出来るようになる方が早いんだよ。なんか着て降りて来い」  生真面目で、心穏やかな幼馴染は今や家庭的でもあった。  母親が亡くなってから家事全般を嫌がることなくこなしているのを知っていたが、仕事を終えた後、幼馴染相手とは言え夕食を手作りするまでとは思っていなかった。いよいよ我が幼馴染の心配が尽きない大槻であったが、恐らくそんな心配など無意味に信一の方が先に結婚もするだろう。自炊など、ここ二十日程確実にしていない大槻が満場一致で完敗である。  まるで母親に促されるような有様だ。言われるまま大槻は実家から受け取った紙袋の中身をあさり、いつか忘れていったらしいスウェットとTシャツをまとって一階に降りた。  階段を下りる途中から既に夕食の香りが漂っていて、思い出したように鳴った大槻の腹は急激に空腹状態となった。考えてみれば寝起きに一ピースだけ残っていた小さなチーズを口にした以降なにも飲み食いしていない。食べる気にならなかったことにも驚くが、食べてもいないのになけなしの体力全てをつぎ込んでよく七時間も眠れたものだと貯まり過ぎた疲労にも驚いた。  良くない、どれもこれも良くない。ここにきて大槻は信一の休まない性格となにも変わらない自分の状態を初めて認識した。  見慣れた間取りを辿って開いたままのダイニングの扉をくぐると荒れた様子もなく、掃除も毎日欠かされていないのがよくわかる。ゴミ箱に溜まったゴミもない。床に落ちている服も物もなく、不要なものが壁沿いに山積みにされてもいない。わかってはいてもこれが男ばかり三人住まいの家ということを忘れがちになる。きっと屋良家は揃いも揃って家事能力も生活力も大槻より遥かに高いのだ。大槻の現在地がマイナスである点を考慮しての値ではあるが、それでも、だ。  テーブルの上はとても賑やかで、それでいて温かい。飯椀には既に米がよそわれていて、具沢山の味噌汁、焼き鮭、茄子と南瓜の煮浸し、他にも小鉢や、まだ蓋が開けられていない保存容器が二つある。  食器は見たところ二人分で、残る屋良家二人分は用意されていなかった。大槻は一瞬頭の中に引っ掛かりを覚えたが、それよりも大きな衝撃を与えるものが視覚をさらってしまい、すぐに思考から除外した。  そんな家庭的な料理の横には林檎、グレープフルーツ、キウイが一口サイズに切られて盛られているのを見て大槻は盛大にため息を吐いた。これは昼、大槻の実家で強引に渡されていた一部なのだとはっきりわかったからだった。屋良家に住む人間を知っていれば果物を大量に消費出来る環境とも、好んで食べるとも、まして購入するとも思えない。 「こんなん、また腐りそうなもんばっか寄越しやがって……」 「まあ、患者にはサプリメントよりは生の果物をって言うけどね」 「いっそ凍らせとけば見た目のいい氷になんじゃねえの? ハイボールにでも突っ込めば洒落ていいんじゃねえ?」 「やると思う?」 「やらねえなあ」  困ったもので、実家の母親というものはどうして男や息子相手にこうも果物を渡したがるのか。大槻の自宅に届く荷物も実家で余って食べ切れないものが山ほど届くが、時に果物だけが詰め込まれたものが届く。  消費しきれるわけがない。好んで自炊もしない息子の性格も十分に理解して、小言まで言っているはずなのに。都合良く、その時ばかりは息子の不出来さを忘れているとでもいうのだろうか。  屋良家との交流は屋良家の母親が亡くなってからというもの、殆ど家族ぐるみに近かった。ならば、わかっていても良いはずでは。特にこの親子は仕事中心の生き物なのだ。優雅に果物の皮を剥いて食べるような時間は作らない。冷蔵庫を開けて目についたものを口にしてまた医院に戻る。能力はあっても本来調理すら自分の為にはしないのだ。  みかんくらいならば完全栄養食の扱いにはなるかもしれないが、皮を剥く果物ばかりを寄越すのはどう考えても良くない。腐って土にかえるのが目に見えている。  自分の親がかけた迷惑ならば仕方ない。大槻は食卓に着くなり皿を手繰り寄せ、味わいもない、作業の流れで果物を口に放り込んでいった。先程まで眠っていた体に多すぎる果物の水分はあまりに冷たい。腹の中がみるみる冷えていくのがわかった。 「どれをお前が作ったのかは聞かないでおいてやる」 「俺は魚焼いただけだし、別に全部作ったものでもないよ。でもこれは圭一の家の味」  丁度温め終えて食卓に出されたのは保存容器に入ったれんこんのきんぴらで、それは大槻には見慣れ過ぎた姿をしていて頭を抱えた。直前に吐き出したからかいは見事に水の泡だ。  大槻の母にとって、早くに母親を亡くした息子の幼馴染は最早実の息子となにも変わらない存在となっているのはよくわかっていた。無理もなく、母親が他界した後、だからと言って院長が信一の全てに手をかけてやれるはずもなかった。まして未だ村の人間は遠巻きで屋良家を見ている状態で越してきた身でこの土地に親戚がいるわけもなかった。それを見かねたのが大槻の母と祖母で、その原動力は息子の大事な幼馴染であるから、という部分も超えていたようにも思う。  きっと、同じ母親である彼女達の目ではたった十二歳の子供を残してしまう気持ちに堪えられないものがあったのだろう。  今になっても大槻にはその気持ちを理解するには遠く、想像でも及ばないだろう。けれどいつか母と祖母の気持ちを理解しては胸を傷める日も来るのだろう。  母の気持ちもわかる、わかるが程度というものも、適度というものも、適正量というものもある。  どこまでを後処理して帰ったものか。悩んで早々に大槻は果物への流れ作業の手を止めた。
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