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暫く頭の中から消えていたものが、急に動き出した。
「今ですか? でもそれがどうしてうちに連絡が入ったんです?」
信一が医院を留守にしている間に院長から話を聞こうと、大槻は地元に戻っていた。けれど勿論勤務中であり、さも仕事の一環として抜け出して来ているのが現状である。急な上司からの着信は肝を冷やしたが、内容は大槻を咎めるものよりもずっとよくない。
上司から告げられた内容は、如月の生徒が健康診断中に混乱し、暴れたというものだった。信一が医院を留守にしているのも今まさにこの健康診断を行っている所為だった。
信一がいる場所で生徒が暴れた。それだけの意味でも十分に背筋をぞわりと撫でる嫌なものが走ったが、「二ヶ月」を調べ始めた大槻にとってもう、それだけで済むものでもなかった。これにすら意味があるように思えて仕方がない。
『如月の一件で俺の同級生が今の生徒の保護者ってのも勿論いるんだよ。それで、校長と、あと数名の職員には俺はこの街の出身だってことも話してあるし、必要があれば、なにか困ったこと一つでも連絡してくれ、相談に乗るって話しておいたんだが、本当に必要になるとは思ってなかったな。いいか、メモするなり頭で覚えるなりしろよ』
そう言って上司は詳細を語ってくれた。
午前の授業時間から健康診断は始められたが、そもそも健康診断もそのもの本来の意味でというわけではなく、件の事件から生徒の心の健康を調べる為に急遽執り行われたものだった。誰にも話せない悩みでも医者という存在相手ならば話してくれるかもしれない。そして、それを学校側でそれとなく解消出来るものならば取り組みたいという、藁をも掴む意図からだった。
そうして頼まれたのが屋良医院、そして、訪れたのが信一だった。
健康診断が始まってから数十分は正常な空間であったが、しかしとあるクラスに差し掛かると既にざわつき始める。そして、最終的には一人の生徒が健康診断が行われている教室に入るのを拒み、大声を上げ、暴れ出した。その生徒は篠宮良介といい、彼は大声で叫んだというのだ。
――あいつに見つかるかもしれねえだろ! 三上だってずっと怖がってたんだ!
――あいつに見つかったら死ぬ、俺は死なない、絶対に死なない!
「……どういうことです? あいつって、なんですか?」
『そこは、先生方も俺もわからん。その後収束する際に生徒に聞いて回ったんだそうだが、誰もなにも聞いちゃいない。篠宮っていう生徒が誰にも相談していないんだろうが、それが単なるストレスか、もしくは自殺の一件に関わっているかも不明だ。なんにしても自殺だったからな、三上は』
「でも、その原因があったかもしれないってことになりましたね」
〝怖がっていた〟というのが引っ掛かる。怯えて自ら死を選べる程のものとは、一体なにがあるというのだろう。そして、それが万が一事実だとして、篠宮という生徒は三上が抱えていた問題を知っていて、篠宮自身もそれを知っていることになる。「あいつ」と、個別に呼んだからには。
「面倒臭いことになってきましたね。でも、どうせそれも俺たちじゃないんでしょう。課的に当然ですけど」
『その当然の課の人間が職務を放棄してることも、俺にとっちゃ面倒臭い話なんだがな』
しまった、と思ったのと同時に、大槻は口を閉ざしてしまった。黙秘は肯定の表れでしかない。
「いや、あの、……」
『いい。知っちまえば俺は怒らなきゃならんし始末しなきゃならんしで面倒臭いんだ。勝手にどうにかして知らない間にいつの間にかってなって仕事だけして帰れ』
それ以上は聞かないという現れなのか、大槻が「お疲れ様です」と言うのよりも少し早く、上司は電話を切った。
身内であるからと甘え腐っていた自覚はなかったが、現状、こうして好き勝手に動き回っているのでは、自覚はなかろうと上司が身内という自負はあったのだろう。仕事の全てを投げ出して来たわけでは勿論ないが、大槻は急激に自分が情けなくなってため息と共に頭を抱えた。
けれど、これは警察であるという後ろ盾がなければ進まないのかもしれない。その恐れから大槻は個人のみで動ききれずにいた。
情けない。憧れ続けて得た職業を、自ら棒に振っている。正しい使い方でもなく、身勝手な自分の行為も考えにも、事後になって嫌悪感が沸いてしまった。
大槻は手持ち無沙汰に、ただ佇んだ。見慣れた駅構内、本当に小さな駅は、その存在感よりも多くの人間が利用しているのは今も昔も変わらない。この町の人間だけではなく周辺の町からここまで車で来て、という利用者もいるのだ。大槻が肩を落としてばかりの今、この時にも出入りが繰り返されている。
考えていても大槻が今するべきことも出来ることも一つしかない。如月でそんなことがあったばかりでは医院に行くわけにもいかない。このまま、本来の職務に戻る、それだけである。
大槻が時刻表を確認する為に身を翻したのと、ほぼ、同時。大槻は先日にも感じた違和感も、またも感じた。
一人の男が大槻の横を過ぎて、駅を出て行った。何故か、大槻はその男から感じた〝雰囲気〟に、酷く見覚えがあった。けれどこの違和感は如月高校の中でも感じたものでその〝雰囲気〟が如月高校に関係のない場所で人で、感じられるわけがないはずだった。
「――あーの、すみません」
酷く間延びしてしまった第一声は男に警戒心を抱かせてしまったかもしれない。けれど、出してしまったものは仕方がなく、大槻は男に歩を進めて、近づいた。
「あの、すみません。お聞きしたいんですけど」
近づく大槻に、男は意外にも印象の良い表情で会釈までして足を止めてくれた。車に乗る所だったのだろう、左手には鍵が出た状態のキーケースが握られていた。
「あの、如月の一件で周辺の方々にお話しを伺っている署の者です。失礼ですけど、保護者の方ですよね?」
カマをかけた。もし間違っていても嘘はついてもいないし、そうであるかを確認しただけでこの男に何かしらの被害があるわけでもない。
まして、如月高校の一件で感じた違和感を生徒ではななく大人に感じたということは教師か保護者、その二択に賭けてもこの場合保護者にしか偏りようがない。
「はあ、確かに息子がそうですけど、また何かあったんですか?」
職務を抜け出しただけあって、スーツ姿であったのも功を奏したかもしれない。
男は疑う様子もなく、肯定した。大槻はスマートフォンを確認し、あたかも一覧でもあるかのように操作して見せた。勿論そんなものはなく、ロック画面を撫でているだけだったが。
「今連絡が入って、なんでも健康診断中に気分を悪くした生徒がいるそうで、その子のご家族でなければ良いなと思って。すみません、お名前伺っても構いませんか?」
「はあ、自分は岡崎ですが」
「岡崎さん、よかった。気分を悪くした子は篠宮君という生徒さんのようです。すみません、わざわざ呼び止めてしまって。でも息子さんじゃなくてよかった」
「ええ、かえってすみません。息子も多少は気落ちしているところもあるようなので、こちらも助かりました」
男はまた軽く会釈をして車に乗り込み、見送って頭を下げた大槻の前から去っていった。顔を上げるとまだ男の車が視界の隅にいる。そうして完全に消えてしまうまで、大槻は平静を保った。
吸い込んだ空気を吐き出すと、呼吸が震えて出ていくのがわかった。この震えは、どれに対してのものなのか、大槻自身にも判断がつかなかった。
反してわかったものもある。大槻がこの、如月の一件で何度も感じた違和感の正体である。だが、こんな形になるとは思ってもいなかった。もっと簡単な、同級生の面影や、昔の恋人によく似ていたとか、その程度を望んでいた。いや、望んでいたというより、その程度しか考え付かなかったのが正しいのかもしれない。
こんなものは頭の隅にも置かれた試しがない。大槻はよからぬ繋がりを発見してしまった自身を落ち着かせようと何度も頷いた。わかった、わかっている、まずは落ち着いて、確認するまではなにひとつ真実でもない。
「岡崎……」
一人ごちる言葉が、どれもが震えて喉を出ていった。
岡崎と名乗って去った男は、よく似ていた。線の細い顔つきに、感情が平坦に表れる目元も、よく、似ていた。信一の弟であるはずの、岬の容姿と、とても。
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