第二章

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 気が付けば大槻は列車に揺られ、気が付けば職場に戻り仕事を終わらせていた。そうして更に考えなく動いた体はいつしか実家へと戻り、住み慣れた家のリビングでぼんやりとテレビを眺めていた。なにかのバラエティ番組が流れているが、こんな番組はあっただろうか、いつから始まったものなのかわからなかった。  背後では母親が夕食後の片づけをしていて、父は珍しく残業で帰っていなかった。祖母は風呂を終えて、今は自室でなにかしている。好き勝手に動くのが、大槻の家族の習慣だった。団らんを確実に、などと、誰も声を上げることもない。  あれだけ震えていた自身の呼吸は、今は深く大人しいものと落ち着いていた。けれど、油断すると大量の情報と感情が大槻の中で溢れかえってしまう。あまりにも膨大で、正直自分のことながら受け止めきれるものではなかった。そうして、落ち着くまでずっと、テレビを眺め続けている。ぼんやりと、なにも頭になど入れてもいないまま。  繋ぎに入るCMが、幾つか家族の幸せそうな顔で満ちていた。こんなものは理想であり、誰の頭にも理想の家族として刻み込まれているからこそこうした形の表現でばかりいるのだ。これは理想だ、そうでありたいという、こうであって欲しいという。 「なあ、聞いていい?」 「えー? なにー?」  夕食の残りを保存容器に詰める母親の声は、リビングに届くようにと間延びして張られる。いつもだが、そうも広くない場所でどうして母は大きな声を出したがるのだろう。 「美津子(みつこ)おばちゃんってなんで死んだの」 「え?」 「信一のかあちゃん」  テレビ番組の大きな歓声など無視して、母親の声やため息とはよく通る。今も、そうだった。 「あんた今更なに言ってんの?」  母の声には少しばかりの怒気が含まれていた。母親というものは、何故にこうも怒りたがるのだろう。 「こんな仕事してたら色んなものが疑わしく思えてくんだよ」 「じゃあ疲れてるんじゃないの? 信一君にまでそんなこと聞かないでよ」  聞けるわけがない、信一にはこんなことの一言も、言えるわけがない。  だからこそ宙に浮かんだままでいる。二ヶ月のこと、母親のこと、父親との仲のこと、岬のこと、あらゆる、本当のこと。  大槻は再び、ぼんやりとテレビ番組を眺めた。背後でなにやら母親が言った言葉も音のひとつとしては入ったが、会話としては受け取れていなかった。  誰もかれもなにかしらを隠してくれている。  大槻自身、身に覚えはある。信一の言動や屋良家の不穏さや、そういったところを全て知らないと振る舞って来た。本当はどれも知っていて、そう振る舞った。だからこそ隠すという行為の意味を、知っている。  篠宮良介は、自殺した三上章との間でなにかを話している。しかし、それは大槻の知らない場所で誰かが解決することである。大槻自身が出来るのは幼馴染みの、信一の二ヶ月と岡という男と岬の関係、そして、屋良家の母、美津子の真実なのかもしれない。  喉から出かかっている憶測を、大槻は何度も飲み下しては嘔吐く。けして軽はずみな気持ちで口には出したくない内容は不快感で堪らなかった。  ここに来た時と同様に、大槻は殆ど空の状態で実家を後にした。気が付けば列車を降り、気が付けば一人住まいの自宅の扉を開けていた。  こうしていつの間にか事が終わり、またいつもの日常に戻っていないだろうか。眠る前、大槻はそんなことを考えもした。つまらないと嘆いた若かりし日常が、今はただただ恋しい。  翌日、目覚めるとやはり起こったことは現実で、まざまざと大槻の頭に記憶が残ったままだった。忘れることなく脳にへばりついたものは振り落とせそうもなく、体を起こした反動でも出て行ってはくれなかった。 ――岡崎  昨日会ったあの男、岡崎という人物。彼は「息子」と言ったか。そして会話内容から恐らく如月の一年に籍を置いているのではなかろうか。ということはまさしく、留年を二度繰り返してしまった岬と、今同じ学年にいる。  岡崎、岡崎の息子、岬、この三人がそこで揃うと岬の留年すら怪しく思えてしまう。  屋良岬は体が弱いと大槻は聞いていた。その所為で高校に入ってから行ける回数が減り、休みがちになったのを経て留年。もう一年は体からくる心の負担とも聞いていたが、本当にそうだったのかも危うい。  思うのは、岡崎の息子と同じ学年になることを狙った動きなのではないかということ。  しかし岬も屋良家にも、そうすることになんの意味や理由があるのかがわからない。岡崎の息子をゆする為だった仮定しても屋良家には金も権力もあり余す程にある。人に害を加えてまで求めなければ手に入らないものなど考え付かなかった。  もし、物理的なものではなかったとしたら。それは情報や感情、気持ちの部分。つまり、母の美津子(みつこ)の存在や、その情報。  やはり美津子の死亡した理由や状況をどうにかして知れない限りはわかりそうもなく、大槻はただただ頭を抱えた。  知らないことが多すぎる。兎にも角にも、ここ最近の自分の情けなさは自分自身でも嫌気がさし始めてもいる。  本来ならば考え付く前から出来ているべきであるが、やるべきことをきちんとこなし、終わらせた上で動くべきであると大槻は決めた。  出勤し、小さな仕事もこなしきるまでには思っていたよりも時間を要したが、如月の一件からなかなかに貯め込んだものを綺麗さっぱりなくなる状態にまで持っていくと心地が良かった。けして本当にそうであるわけでもないのだが、なにか自分自身の中にあるものがひとつ解決出来たかのような晴れ晴れしさだった。  そうして全てをやり切って、後ろめたい気持ちもなく行動出来たのは夕暮れが迫った頃。大槻は腹を据えたのだと自身に自覚させるべく電話を取った。 『誰? 岡崎さんって、坂の上に住んでる方の?』  自身の倍年はあの町で生き、暮らしている母親はこの時ばかりは誰よりも頼もしい限りであった。  単純に情報量が多い。加えて今の時代田舎ならではの風習のひとつとなった濃密な近所付き合いも未だにこなす母には名を告げるだけで〝どこの誰〟から職業、家族構成や周り巡って彼等が抱える問題ですらわかってしまう。  おぞましいと思う反面、今ほど頼りがいのあることもない。 「いや、それはわかんねえんだけど。今、如月の一年に息子がいる岡崎さん」 『あんたそれ聞いてどうすんの? 仕事?』 「仕事以外にあるかよ。昨日だって如月で一件あったの知ってんだろ?」 『岡崎さんとこの息子さんがなんかしたの?』 「そういうのを調べてんだよ。なんか知らない? ていうか、俺あの人見たこともないんだけど、元々から町の人?」 『そうよ。ずっと町にいるし、生まれもここよ』  そうして母親から得た岡崎という男の素性は、これと言って屋良医院に関わるものとは思えなかった。  岡崎という男は若い時分から町の外で働いていた。辺鄙な町の中で若い人間が仕事を探すとなると少々難があるのを大槻も知っている。ファストフード店もなければ、コンビニエンスストアも、大槻が十代に上がった頃に漸く出来た。岡崎という男は大槻よりも年上で、十歳も上であれば彼の青春時代、この町に彩るようなものは何もなかったはずでああろう。  そうして働き口を町の外に見つけた岡崎は夜働いて朝や午前中に戻るような不規則な生活をしていたと母親は言う。  やがて岡崎は町の人間ではない女性との間に子供が出来たが現在その女性の姿はなく、子供と二人、この町で暮らしているのだそうだ。  男手一つで年頃の子供を育てるのは如何に大変で、彼が頑張っているのかという説教も頂いたがこの際、大槻はそれをも享受して情報を得た。岡崎が現在三十九歳であること、息子の啓介はとても頭が良く、家のことを任せても上手くやる子であるだとか。  どこでそんな情報を交換しあっているのか、母親の情報網というのは末恐ろしい。電話の最後には「あんたの年の頃には岡崎さんはもう父親だったのよ」と結婚を催促もされたが、そこは仕事が残っていると早々に切り上げた。  ここまでの情報で岡崎が屋良医院に関係するとすれば、それは息子の存在のみだった。親ともなれば、これまで幾度となく子供を屋良医院に連れて行くことはあっただろう。まして母親の存在が確認されていないのならば尚更だったかもしれない。  けれど、たったそれだけでもあった。いや待て、と一瞬考えた岡崎の息子と岬の母親が同じである可能性も岬が二歳の時に屋良家の母親、美津子は死亡しており、三歳年下の岡崎の息子が同じ母親であるはずもなかった。  もう何度考えても結果、屋良家の母親に回帰してしまう。  誰しもそうであろうが、屋良家の母親は秘密を抱えてこの世を去ってしまった可能性がある。それがとても大きく、恐らく残酷なものである予想がついてで大槻は踏み込むのを躊躇ってしまう。  無意識にそこ以外の部分ばかりを調べようとしてしまう。岡崎や二ヶ月、岬にばかり。けれどその岡崎も岬も、屋良家の母親の秘密に関係している。岬などは直結で、その結果なのだろうから。 「……思ってたのと随分違うな」  大槻の中にある屋良家の母親、美津子は、あんな町には不似合いな程華やかで、けれど品のある女性だった。  それは大槻のような子供ながらの記憶だけには留まらず、町の男にとってもそうであったのだろう。見方と受け取り方は随分と違うが、そういうことだった。同時に美津子自身も、違ったということだ。  大人は秘密と嘘で成り立っているのかもしれない。大槻自身にも覚えがある限り、違うとも言い切れない。途端に虚しくなった、向けられた笑顔の裏を見たような気分で、嫌になるばかりだった。
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