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どれだけの時間ぼんやりと過ごしただろう。大槻は職務を終え、本日就業となった後も職場に残った。正確には職場にある休憩室の中で過ごしている。窓の外は六月の終わりでも暗く、幾つものビルの合間をぬって遠くに明るい青を覗かせているだけになっていた。
屋良家の母親のことを思い出していた。ほんの些細なことでも、大人になった大槻の目で見て〝違う〟と思える箇所がないものか、古い記憶を幾つも思い返していた。
だがこうなってはただただ残念なことに、どれもが完璧な母親像そのもので信一と共にいる側で微笑む姿以外になにも浮かんでは来なかった。信一を眺め、見守るその姿や表情は優しさや温もりに満ち溢れていた。大槻の母親のそれも、他人が見る分にはそうであったのかもしれない。
では、そんな女性が〝母親をやめる〟瞬間というのはどういったものになるのだろう。
そしてそれは〝信一の母親をやめた〟のであって、また難しい。彼女はやめた後で岬の母親になっている。では、それだけ愛せる人物に出会ったと言えるのだろうか。
まさかそれを知って岬を受け入れたとは考えにくい。院長は、一体どんな気持ちで岬を迎えたのだろうか。
岡崎自身も屋良医院に通っていたであろうに。曲がりなりにも、医師である。遺伝的な部分を見逃すはずがない。
いつしか顔を覗かせていた青も消え、自動販売機の低い稼働音が一層目立つ時刻ともなった。このビルに残っているのはもう、自分位だろうか。お疲れ様と言い合う声も随分と前に聞いた以降耳に入らない。
椅子に座る前に購入した缶コーヒーは、実はそこまで好んでいなかった。ただただ甘ったるいだけで深みも香りもなにもない。喉に食道に張り付く感覚は大槻が飲み込めずに嘔吐くものとよく似ている。例えるならこれ程同じ印象なものもない。
守衛のものであろうか、久々に自分以外が発する音が耳に届き、遠くから足音が近づく。大槻は気が付くと同時に形だけでも「今まさに帰るところ」であるように取り繕ったが、ガラス戸を覗いた顔は良く知った身内のそれであった。
「お前、まあだ残ってんのか。珍しくちゃんと仕事してるなと思ったら」
「いや、ひと息ついてるだけっすから。思いのほか長居しましたけど」
上司もまた大槻と同じ缶コーヒーを購入した。この缶はスチールの特徴なのかもしれないが、落ちる音がやけに鈍く、頭痛のある日には聞きたくない音として上位に上がる。
特段美味いと評判なわけでもないこの商品が途切れることなく次がれていくのは皆同じ状況だからなのかもしれない。特に効く気もしない、名ばかりの甘ったるいカフェインの過剰摂取はこの職業の定めなのだろう。
「圭一郎、お前なんかよからぬこと調べてんのか?」
唐突に、叔父は甥の顔を見ずに言う。
「いや、別に。如月のことを調べてただけだよ」
「そうか」
叔父は大槻の正面に椅子を引きずり置いて腰を下ろした。手の中で硬いスチールの缶を弄ぶのが暫く続いて、その後も中身を飲む気配はまるでなかった。
「お前の母さんから聞いた。お前、何か調べてるな」
悪さがばれた瞬間のように、血の気が引いたのがはっきりとわかった。
けれど、それはそれだけの意味ではなかった。大槻は最早子供でもなく、あの頃のように叱られるのに怯えるだけの存在でもなかった。
大人になってわかる大人の言葉と、その背景の、意味や理由。いやという程、大槻にも覚えがあった。
「岡崎君のことを調べてるのか」
沈黙は肯定だと、この職につくずっと以前から叔父に教えられていた。それを十分にわかっていても、今、大槻の口から出る言葉はひとつもなかった。
確かに、おかしなことを聞いたのだろう。けれど、その内容がこうして母親から叔父に回った事実。大槻は、何故か身構えるよりもずっと、体の力が抜けていた。
「どこまで知った」
「……知ってはいない、気づいたんだ。岬と似てることに」
「そうか」
叔父は甥と向き合い、膝をつき合わせた。高校生の時、叔父と同じ職に就きたいと話した時に、これと同じ瞬間があったのを大槻は思い出していた。
その時初めて叔父と深く話し合ったのは決意と職務における正義についてのものだった。その中には自分自身の正義がなければ信じていくのが難しいことも、あの日叔父の口から習った。
「……圭一郎、今から話すことは、もう、終わったことだ」
そう言って、叔父は甥の目を見た。その瞬間から、大槻は一体どれだけのことを鮮明に覚えていられただろうか。
伝えられた真実は子供であったあの頃の大槻と信一を波に飲み込み、轟音の中に消し去った。
大人はいつだって子供の気持ちなど考えずに自分達の判断をしてしまう。いつでも大人である自分の考えが子供のものより最善であると思い込む。いつだって、子供には選ばせてなど、くれない。
思い出のなにもかもが大きな手によって真っ黒に塗りつぶされて消えた。完璧な母親像も、絶対の信頼も無償の関係も、自分が見てきた世界すらも。
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