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第三章
こんな季節外れに行われる健康診断に正真正銘の意味などはない気がしていた。きっと川村や三上の件から不安になったのだ、心の健康も体の健康も。これ以上の〝不祥事〟は起こしたくない、そんな考えなのであろうということは説明されずとも岡崎達生徒にも察しがついていた。
朝の時間からすぐに健康診断が行われる今日は登校からジャージで、各クラスともに男子生徒から診断が始まった。検査が行われる空き教室の前には男子生徒の列がなり、私語を禁止されていてもやはりざわつく。
ただの待ち時間にすら私語を禁じて「静かに」と呼びかける。学校自体に半ば強制的に収められた上、更にとなる閉塞感で堪らない。やがて自由を求めてしまうのはわかりきったことのような気がするが、困惑し続けている大人には最早それも理解出来ていないのだろうと思った。
退屈に耐えかねた会話なら耳に入ったとて聞き流せるものを、こうも学校側が慎重になりすぎていく様を受けるとどうにも話題はそちらへ傾く一方だった。誰しも、余計に怪しむ。
あれもこれも隠され続けた結果、憶測が飛び交っては逆に不安を煽っている。学校や大人達がこうして慎重になればなる程、如月の生徒は心が病んでいくのが岡崎にもわかった。自分自身、不穏な環境が続いて既に如月は居心地が悪い。不登校や体調不良な生徒が続いても仕方がない気がしていた。
大人への安心ばかりが先立っている。生徒への対応が間違っていてはなにも変わらないことは、いつになれば気が付けるのだろうか。
四月に行われた健康診断よりも列が進む速度が遅い。徐々に、列のあちこちから不満を漏らす声が出始める頃には岡崎自身も疲労を感じていた。立っているのも、硬く冷たい廊下に座っているのも、この空間にすらも疲れてしまう。
今日も朝から降り続ける雨で校内はいつにも増して薄暗い。ざわつきの合間に訪れる静けさの中にふと雨音が入り込む瞬間がある。その、ほんの一瞬がこの数ヶ月の間に起きた出来事に重なってこれまでの様々を思い起こさせてしまう。あの日も、あの日も雨だった。
岡崎はふと出掛けの父が傘を持っていなっかったように思い出し、けれど、どうせ車通勤なので関係はないだろうと意識を遠のけた。
その、同時に。
唐突に列の後方、空き教師とは反対側の廊下から教師と生徒のやり取りが響いた。その声は両者この場の誰よりも大きく感情の籠められたものでただの私語とは思えなかった。だからこそ皆一斉に言葉を飲み込んで振り返り、静まり返る廊下に尚更教師と生徒の声が反響していった。
「だから! 俺はいいって!」
「なに言ってんだお前、なにがいいって言うんだ。やましいことでもあるのか」
「なんだよやましいことって! なにもねえからいいって言ってんだよ。健康なんだから受ける必要だってねえだろ! どこも痛くもなんともねえんだよ」
「いいから、一回落ち着けお前。なんだってんだ、どうした」
「どうもしてねえからいらねえって言ってんだろ!」
列の誰かが小声で「篠宮だ」と呟き、クラスメートだとわかると一気にざわつき始めた。
岡崎にも知った顔である篠宮の荒れように思わず固唾を飲んだ。篠宮は元来荒れているタイプではなかった。大人しくもないが、どちらかと言えば気だるげに話すのが特徴的で、根が真面目なのかこれまで悪さの評判も聞いたこともない。
仲良く連れだっていたわけでもなかったが同じ町、同じ学校で過ごした中で篠宮が教師と言い争ったという話もこれまで聞いたことがない。悪い噂も印象も、耳にしたことがなかった。
そんな篠宮が、教師と言い争っている。何事か、とても苛立っているようにも焦燥のようにも見えた。とにかくこの場に居たくないのであろうことはその様子でよくわかる。去ろうとする篠宮の腕を教師が制して、それを振りほどこうとする。その繰り返しと言い争う声が続いた。
「ほら、もうお前のクラスになるから。すぐ終わるだろ、健康なんだったら。さっさと終わらせてしまえばいいじゃないか」
「いいんだって!!」
「篠宮、わかった。待たなくていいから、もうお前先に入れ。それで終わらせてから話を――」
「いやだって言ってんだろ!!」
篠宮が一際大きな声で叫んだ所で騒ぎを聞きつけた教師があちこちの廊下から現れ、診断を行っている空き教室の中からも困惑の表情が覗いた。すると一層、篠宮は声を荒げ、岡崎にはその様子が怯えているようにも感じられた。
「あいつに見つかるかもしれねえだろ! 三上だってずっと怖がってたんだ! あいつに見つかったら死ぬ、俺は死なない、絶対に死なない!」
瞬時に、誰しもが言葉をなくし、誰一人、篠宮に駆け寄る教師もいなかった。
その表情を表す言葉は見当たらない。けれど、どの大人もまるで同じ表情のまま、固まった。
大声で喚き散らす篠宮はまるで地団駄を踏むように床を鳴らし、両腕を大きく払って頭を抱えた。そのまま声を上げ、しゃがみ込んでしまった。
岡崎には篠宮のその咆哮が、悲鳴と言うよりも恐怖に打ち勝とうとする決死の叫び声に聞こえてならなかった。
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