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憂鬱な夏も終わり、秋すらそろそろ終わりを迎える十月、身内でもある上司はこうして定期的に自分を気にかけに来てくれる。わざわざ手土産片手に、時には休暇までとり、甥の自宅まで足を運んでくれるのだ。
今日は訪れるなり珍しく外に連れ出された。叔父がこうして気にかけてくれるようになった当初ではそれを快諾は出来なかったが、この頃はほんの少し、気力が湧いてきているようだ。それでも本当に最近、恐らくこの一か月ないかどうかの間にそうなれた位ではあるが。
青の薄い秋空を数分、なんてことのない会話を続けて歩いた。途中コンビニでペットボトルの飲み物を二本叔父が購入するのを待ち、そのコンビニのすぐ横にある緑の多い大きな公園の中へと叔父に導かれるまま進んで行った。
自宅の近くにあることから何度か寄ったことはあるがこうしてじっくり歩み進めることもない。この数か月に限っては新鮮な空気を吸う機会すら殆どなかった。道の脇には等間隔に木々が植えられ、秋らしく紅葉した葉の隙間から射す陽が人工的に作られた細い水路に反射して目に痛い。
よく考えれば太陽の下を歩くことすら、ほぼなかった。空気はこんなに鋭く澄んだものだったか、光の色は暖色でもなく白だったか、久しく踏む土の感触はフローリングばかり踏んでいたせいでいやに弾力を感じて硬いゴムのようだった。
時折風が木を揺らすとあらゆる自然のにおいがした。枯れた葉のにおい、水のにおい、土のにおい、長らく家に閉じこもり続けたせいで嗅覚が敏感ににおいを拾ってしまう。与えられる情報が今の自分には多すぎて、噎せかえてしまいそうだ。
今に始まったこてではないが、就職の時点、いや、叔父の仕事に憧れてからというものずっと世話になり続けている。子供の頃からの憧れに続き、物心つく年代になると地元のどんな悪い先輩達も叔父には頭が上がらない、その存在がとにかく自分には魅力的だった。
自分も、そこそこ頑張った。叔父の指導があったのも確かではあるが、元来じっとしているのが苦手で、それ程勉学に勤しめる性格ではなかった自分を支えてくれた幼馴染の存在があったのも大きかった。幼馴染は自分よりもずっと頭が良かったが、彼はそれでも更に勉強に励まなければならなかった。そのおまけで時間を共にしていくにつれ、自分もこうして落ちこぼれずに済んだのだ。
叔父にもだが、幼馴染にはこれからも頭が上がらない。それは、変わらないのだが。
その憧れの末こうして叔父と同じ職業に就けたわけだが、この有様だ。一日中家の中に閉じこもり、気にかけてくれた誰かが持ってきてくれた食糧を味すら理解なく、時折食べる。陽の光に当たるどころか外の空気すら吸うこともなく、いつの間にか季節も進んで、ひとつ時が過ぎてしまった。こんなことをしている場合ではないのに。
休職をして、もう三か月に入った。
「今年の夏の晴れが続いたせいで町の川も随分水嵩が減ってたのが、秋雨でなんとか回復したそうだぞ」
「あの日はもう雨でした」
濃い霧は雫がはっきりとわかる程で全身がじっとりと濡れた。あの日のことはどれもぼんやりとしていたが、どれもが鮮烈に、はっきりと脳に焼き付いている。頬に触れる霧の粒の大きさまで、未だ忘れられていない。
霧で遠くまでは届かない赤色灯に、かき分ける度に増えて感じる野次馬も、そのどれもが見知った顔であった〝彼ら〟のことも。何十年振りかに、手を引いて歩いた幼馴染みのことも。
そのどれもがあまりに重く、未だに持ち続けていられる自信もない。いつしか重みで骨を折って落としても、もう一度持ち上げることが出来るのかも自信がない。それでも、その場に落として立ち去りたいわけではないのだ。なにが、どれがそれに最善であるのか、自分の行動の選択が想像上でも出来ず自信がない。
途方に暮れている、という言葉もあまりに期間が長すぎて、適格ではない気もしている。
けれど、あの日の自分に対して今でも途方に暮れ続けている。この現状にも表すに適した言葉が思い浮かばない。
「あの日はもう七月だったから、そうだな、あの日は夏の雨だったな」
今から三か月前の七月一日、あの日は深夜まで晴れていたが、ほんの数時間後には薄い霧がかかり、早朝には町が真っ白になった。
霧とは名ばかりで、ほとんど小雨に近かった。だから、あの日は間違いなく、夏の雨だった。
「あの子の様子はどうだった?」
気遣うような叔父の声に顔を向けるが、叔父はこちらを見ていない。木々の合間をぬって、遠くを見ている素振りで変わらず歩を進め続けている。
問われた言葉に〝彼〟を思い浮かべた。瞬時に、目頭が熱くなり、波紋をもって視界が歪んでいった。
三か月、毎日のように出ていってもまだ枯渇しそうにない。瞬きを繰り返しても、おさまる気配もない。
なにもかも、後悔しかない。それは自分自身のものでもあるが、〝彼〟が背負う後悔でもあり、自分たちではどうすることもかなわなかった現実へのものでもある。
自分の手が及ばないところで行われた全てにこうした思いを感じていては生きていくこともままならない。だからこそ自分の世界を生きるのが、ある意味他人を隔てる意味では正しい。
だがあまりにも近すぎた事柄や仲では、どうしてもそうはいかない。その関わりで誰かが見ているものを自分も見ていた。なによりその場にすらいた。確かな自覚があるだけ、無関心で、他人事で済ましてしまった自分に嫌気がさし、後悔にしか至らないのだ。
三か月前に〝彼〟に起こったことはその日に突然現れたものではなかった。共に過ごしていた時間が全て、その過程であったのだから。
試してみたことも勿論ないままここまで来ている。だが、もしなにか一つでも変化があったのなら。なにか一つでも解決出来ていたのなら。なにか一つでも、〝彼ら〟に真実が伝わっていたのなら。
その役目はきっと自分でしかなかった。当事者でもなく、しかし誰よりも近く、誰よりも知っている自分しか、いなかった。
口に出すと、叔父をはじめ皆「きっとどうにもならなかった」と口々に言う。慰めだとはわかるのだが、それが自分にとっては何より痛みの強い言葉でもあった。「どうにもならなかった」かもしれないが、「どうにかはなった」はずだからだ。
長く、答えられずにいると叔父が振り向き、お互いに歩みを止めた。滲む目元を見られぬように俯くと、寧ろこぼれ落ちてしまいそうになる。
「一度座るか」
一言で諭し、冷静を取り戻させるような叔父の言葉の威力は声音や声量もあるのだろうか。叔父にだけは敵わない、と言われていたことも納得しかない。
叔父が先に腰を下ろした木製のベンチに、続いて左隣に腰を下ろした。目の前には人工的な池と、夏には清涼感たっぷりな噴水も、秋に入りその役目に休暇をもらっている。
滲んだ眼球に池の水面に反射する太陽の光が強すぎて目を伏せてしまう。木々の紅葉も大挙する色の氾濫にすら思えて心に響くものもなく、息苦しくなる。
「圭一郎、お前が最後まで押し進めてた検査があっただろう」
叔父がひと際低い声で囁く。その言葉に、殴られたような衝撃で、まさしく目が覚めた。
「………」
叔父の手元にはいつの間にか差し出された茶封筒、A4サイズのそれは縦に半分に折られ少々くたびれたシワがついていた。
それがなんであるか、すぐにわかった。三か月前のあの日からずっと、ずっと望んでいた結果が、納められているはずだ。
呼吸を止めていたのかと思う程肺が苦しくなった。吸い込んでいるはずの空気があまりに浅く、体に取り込むことなく吐き出していた。
この封筒が、休職中の自分の元にまでたどり着いたということはきっとそういうことだ。もしもそうでなかったら、叔父はきっと口頭で自分に伝えたはずだ。「皆の言った通りだったぞ」と。
「……どうやって、納得させたんですか……」
時効だったはずだ。はっきりとした任意でなければ、この結果は出ない。
「被害者も多かった。それにあそこまでさせた原因である可能性があるなら、流石になかったことには出来ないんだろう。それに、毎年毎年もみ消しだの不祥事だの、増やして良いことなんてないからな」
「使えるものは使ったということですね」
「それだけの確証がとれたんだろう。お前にとっては有り難いもんだ」
「まあ……」
妙なことに、頷く頭が止まらない。この動きを止めたら、途端に崩れ落ちてしまいそうだ。「やっぱりそうだった、あいつだった」「お前の思っているようなことじゃなかった、犯人がいたんだ」そんな言葉がすぐに浮かんだが、その言葉のどれが〝彼〟を救えるというのか。
更に追い込むのかもしれない。では自分がこれまでしたことはと、どん底にまで落ちてもおかしくない。落としてしまってもおかしくない。
何故だ、真実が手に入ったというのに確かな喜びを噛みしめることが出来ない。ただただ虚しさが、悔しさが、溢れかえってくる。
「お前の言った通りだった」
見かねた叔父がそう口にした途端、弾けるように嗚咽が漏れ、涙がこぼれた。待ちわびたはずが、最早ほらやっぱりと言えるような明るい感情もない。ただただ悲しい。諸手を上げて喜べる余裕もない。
この世には真実こそ必要なものではある。それが必要とする当人に届いてさえいれば起こらずともよいものを回避することが出来ることもある。
それがどれだけ大きな意味を持つか、誰もが知っているだろう。だが、起こらずともよかったそのどれもを回避出来なかった現実が過ぎていた場合、どれ程の効果があるものか。
この結果を伝えに行かなければならない。だがどんな顔をして、どんな言葉で伝えたらいい。どんな言葉で伝えられたら〝彼〟は受け止めてくれるだろう、少しの安堵でも浮かべられるだろう。
自宅に戻るまで涙が止まらなかった。溢れて乾く気配もない。叔父に送られて自宅にたどり着く頃には服の袖や襟元が濡れて不快感さえあった。
「まずは食って寝ろよ」そう言って叔父が帰っていって、鉛のように重い体をすぐにベッドに横たえた。封筒を開けたのは目覚めた深夜で、結果を見て更に体が重く、けれど内臓が軽く感じて体が空洞のようにも思えた。
窓から差し込む街灯が明るく、電気をつけずとも書面の文字がはっきりと読めた。
――親子関係が認められる
その文字だけがやたら大きく、脳を殴るような鈍い衝撃で目に焼き付いた。
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