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暗がりと、玄関の照明が逆行で照らしても岡崎の表情に変化はなかった。大槻の中にあった幾つかの想定の内のひとつではあった為、感じるものはそれ程なかった。
違ったのは大槻が「まあ、そうだろうと思った」と口の中で濁している間、じっと岡崎が黙っていたことだった。食いついてきそうなものだと考えていた。声を荒げて追い返すかなんのことかとシラをきって家の中に戻って行くだろうと想定していた。
だが、岡崎は黙っている。表情のひとつも歪めず、眉根すら寄せない。
まさかこの一連の中で警察がと、反応も、言葉も用意していなかったのかもしれない。否定をしたいばかりの気持ちであろう。よく、黙っていられる。大槻は自身の表情が歪んでいく実感があった。
「屋良美津子さんの件で来ました。如月の件ではありません。なので息子さんには関係がありませんし、私は警察の人間ですが、けれど今日、今、この件に関しては就業時間でもありますのでそことは切り離していると受け取って下さい。個人的な話です。私は今、屋良医院の、屋良信一の友人である、個人として、大槻圭一郎個人として、貴方を訪問しました」
言葉を連ねる度に口調が早まり、指先から引く熱が頭部に集中していく様を感じた。
冷静にいようと思う程、信一の名を強く発してしまった自覚もあった。暴発しそうな感情を握りしめる右手が不器用に震えて、上手く力が入らなかった。
「もう、私がなにを言おうとしているかはわかっているんだと思います。でも、わかっていたとしても言わせてもらいます」
街灯の薄暗い光で照らされる岡崎の顔は青白い。微動だにしないその能面のような表情が、一層自分の感情を逆なでしてくるのがわかった。見れば見るほど、岬に似ている。奥にいる息子よりも、はっきりと血の繋がりを感じる程。
ぞわぞわと、手のひらの血の動きまでもがはっきりとわかった。体の内部が煮えたぎる。外には出さまいと、必死になって握り締め続けた。
「貴方は屋良家の母親の美津子さんと体の関係を持ちましたね。証拠はありません、本当に、確かなものはありません。でも確信はあります。今、その家にいる貴方の息子さんと屋良家の岬は、兄弟でしょう。見て、すぐにわかりました。岬は特徴が強い。でもその特徴は屋良家のものとは違う。ずっと、信一の友人である自分はその違和感を感じていました。母親の面影はあっても父親の面影はない。急に現れたと思いきや、おじさんには一切似てなかった。でも、あんたの息子と岬はあまりにも似てる。年齢も考えてそこには屋良家の母親が関われるわけもない、彼女はとうに死んでますから。だから、あんたしか考えようがない」
抑えても抑えても、溢れる感情が強まるばかりだった。口から溢れ出す言葉も長年自分の中にため込んでいたものばかりで、その事実がまた自分自身の無力さを逆撫でた。
「屋良家が、真実はどうであれ別居をした。その家で彼女は死んで、そこには岬がいて、勿論おじさんの子なんかじゃなかった。でも、おじさんは妻の残したその、岬を受け入れて……」
今もずっと苦しんでいる、続けようとして言葉が詰まった。
「あんた何したんだよ。おばさんになにをしたんだよ。俺が知ってる限りおばさんはそんな、自殺なんてする人じゃなかったんだよ。……なんでおばさんが信一を残して死ねるんだよ、しかも、岬なんてまだ二歳で、どういうことだよ、そんな子供の目の前で死んで、何日もそのまま、一体なにをしたらそんなことが出来たんだよ! 自殺じゃねえよ、あんたが、あんたがしたことでおばさんが死んだんだろ! なのに、なんでまた子供なんか作れてんだよ、あんたどういう神経してんだよ。なんで! なんであんたじゃなくて屋良家がずっと苦しい思いしてんだよ!」
屋良家はあんなに薄暗い一家ではなかった。おじさんはあんな影を背負った人なんかじゃなかった。信一は「あんなこと」で悩む必要はなかった。
ずっと、見て見ぬふりをしてきたものが次々と自分の口から溢れる。これまで向けようのなかった感情が、一斉に流れ出た。
「おばさんは自殺した、でも原因はあんただろ! あんたが! あんたが殺したんだろうが! あんたのしたことでおばさんは死んで、屋良家は母親も妻も失って、今もずっと! ずっと!」
荒がる声も気持ちも抑えが利かず、このままでは暴れ出して殴りかかってしまいそうだった。理不尽だ、あまりにも。
何故、屋良家が罰のようなこの状況でなければならないのか。妻を寝取られ、自殺に追い込まれ、母親をなくし、遺体となった母親と数日過ごした。生まれたことにはなんの罪もないはずの岬も結果普通には暮らせなかった。
何故、奪われて壊された屋良家が、全て背負わなければならない。何故、元凶であるこの男は一つも背負うことなく赤の他人として生きていられるのか。
理不尽だ。こんなことを、何故黙っていてやらなければならない。それを、「望んだ」からと言って。
声を荒げ、頭を抱え、落ち着く為に何度も深く呼吸を繰り返した。その反動を使って顔を上げると岡崎は未だ、その青白い表情も、線の細い、岬とよく似た顔をひとつも崩さず、じっとこちらを見据えていた。
「十八年も前のことだ。わかってる、しかもあんたは多分、直接なにか手をかけたわけじゃないんだろうな。殺人じゃなかった。それは、叔父さんが確認をしてる。おばさんは明らかに自殺した、だからあんたがやったことは結果として無理やりしたことなのか、それとも……、それとも、おばさんも望んだことなのか、もうわかったもんじゃない。でもそれが無理やりだとしてもあんたがやったことの殆どはもうきっと時効で、あんたを塀の中に放り込むことも法で裁くことも出来ないんだろうってのも、わかってる。でもな――」
一拍、もう一度大きく息を吐いた。
「もうなにもなかったように暮らせると思うなよ。俺は、俺はもうあんたのやったこと、全部わかってる」
こんなはずではなかった。ここに来るまでは冷静に訴えて、苦しんだ屋良家のこと、自分が知っていること、真実を知っている人間がいることを知らしめたかった。それを伝えて、この男にはそれに怯えて生きて欲しいと思っていた。
屋良家が、信一が苦しんだ分を、この先何年も苦しんで欲しかった。けして安心など出来ない。自分がこの町に帰ってくる度に、顔を合わせる度にいつ明るみに出されるかもわからない恐怖と焦りで締め付けられるような時間を過ごせばいいと、思っていた。
けれど結果はこうだ。止めようがない。この男の所為で屋良家が「続けた」ことも、あの日選んでしまったこの結果も知ってしまった。
大事なものにされた仕打ちに黙っていてやれる程、大槻は大人にはなりきれていなかった。
岡崎が尚も崩さない表情は、頼りない街灯と闇夜の所為でやけに岬の弱々しい表情によく似ていた。
この男の背に守られる家の中にはもう一人、同じ顔をした少年がいるはずだ。岬よりはどこか鋭い印象があるのは母親に似たのだろう。どこにいるのかもわからない、もう一人の女性をも母親にしたのだ、この、岡崎は。その両方の女性を妻にもせず、片方の子供には父親にもならず。
何故こんな男が極自然に暮らしている。それがこの町の所為であることも、わかる。閉塞的で、自分達だけで固まり、解決しようとするこの田舎町の所為であることも。この男がこうして暮らせるのは、この町がそれをよしとした所為なのだということも。
虚しい。どれもこれも本人が、当人が下せず外堀の誰かが勝手にことを進める。それが例え正義の感情が招いた出来事であろうと、結果がこうではあまりに虚しい。
「それでどうすんの」
唐突な言葉は流れる空気のように大槻の耳を掠め、一瞬それが自分に掛けられたこの男の言葉であるとは認識出来なかった。
それは一瞬のことだった。まばたきをするのと同じように、ただ、当然のようだった。
「どうすんの」
岡崎は更に問う。表情の変化のない顔は感情すら読めはしないが、その言葉に全てが詰まっていた。
嘲るでもない、焦燥もない。責めた大槻の方が余程、心が乱れていた。
「あんたが今言ったことが本当だとして、産んだのは女の方だよね。夫も子供もいて、他の男と寝て、しかも自分より遥かに若い男と。身ごもって生んで、そら自殺もしたくなること、やらかしてるよね」
「母親を捨てて女になれるだけの相手がいないとそんなことにはならなかったろ!」
「そうだとしたら、相手は屋良医院だろ。金も権力も力も地位もあって、なんで俺一人訴えてないんだよ。法で裁けばいい話で現に俺は訴えられてもない。それが現実だろ」
「……死人に口なしって言いてえのかよ。あんた、なんなんだよ」
「大事な妻が寝取られて、それを訴えられるだけの意地も、無理矢理されたんだって自信もなかったってことだろ。あんたが言ったんだ、あの家は別居したって。そこに訴えられない理由もあったんだろ。だとしたら、自業自得だよ――」
その言葉の瞬間には、大槻は岡崎に掴みかかっていた。
この男は、岡崎は、なにもかも自分が外堀にでもいるかのような言い方をする。どうしたいのかと大槻に委ね、訴えればいいだけと院長に委ね、産むも産まないも彼女の判断であると委ね、まるで自分がしたことの結果だとは思ってもいないようだった。
それが大槻には許せなかった。当事者ではなくとも関係者の一人としてここまで屋良家に関わり、その全てを見て、全ても知った。
何故、諸悪の根源であるこの男だけが、その中心にいない。
掴みかかり、今にも殴らんばかりの大槻に、岡崎は尚も冷静な視線を向けていた。反撃する様子も、その気力すらも見せない。その無気力さのどれもが、岬によく似ている。
「あんた警察だろ。なにもしてない一般市民に手上げるなんて、仕事やばいんじゃないの」
いっそここで殴ってしまえば。寧ろことが明るみになって信一は、屋良家は救われるだろうか。
けれど、もしも願われていなかったとしたら。
叔父のした決断は、その叔父が上司である自分の境遇は、父は、母は、祖母は。
大槻が暴走することで受ける被害の数々が言葉すらも奪い、向け所のない感情にそうするように岡崎を突き飛ばし、離れた。
その一瞬、初めて岡崎は能面を解き表情は嘲笑に変わった。
血の気が引いていくのがはっきりとわかった。「なんだ、こんな簡単な気持ちだったか」、勢いあまって手を上げてしまう暴行事件も、殺人事件も、今なら理解出来てしまいそうだった。
「当人が動かないのにあんたが動く必要はないんだよ。嫌なら、町を出るなりしたらいいんだ。医者なんだから、どこにだって仕事はあるだろ」
嘲りを浮かべたまま、岡崎は自宅の玄関に消えていった。
扉のガラス部分には逆光で黒い影が残り、照明が消えると共にそこは闇となった。
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