17人が本棚に入れています
本棚に追加
結局眠りにはつけずに起床時間まで過ごし、寝不足の重い身体を引きずって尚も降り続ける雨の中、日々登下校に使用している高校まで直結の坂道を這うように上った。
六月に入ってから降り続けている雨は路面を常に濡らし、晴れた空など最近は滅多にお目にかかっていない。しとしとと降る雨は情緒があって良いものだが、こうも長く降り続けられるとその感覚すら麻痺してしまう。雨水に濡れる紫陽花だけはいつ見ても美しく感じるのだが、あまりに続く雨で根腐れをおこしてはしまわないのか不思議に思えた。
長い坂道を上りきると、高台の一角を陣取る大きな建物が現れる。茶色い煉瓦の外壁で、内外装ともに洒落た作りのこの建物は町に唯一の高校、如月高校で、二年前に出来たばかりの新学校である。
中途半端に開発された町に取って付けたかのような風貌はまさにそこだけ都会に似せた空間で、こんな山や海に囲まれ、高い建物もない平坦な片田舎にはあまりにも不自然だった。
しかし町にはこの建物よりも目立つ存在がある。それは建物というだけではなく、真に「存在」としても大きなもので田舎ならではの閉鎖的な象徴として真っ先に挙げることが出来る。この町にとって絶対権力、屋良医院である。
町を一望出来るこの高台から右、海側に見える白い建物の屋良医院、こちらも町に唯一の病院で、その歴史はこの町が本当に小さな山村であった頃に遡る。
当時まで外界から遮断されたような僻地であった村は今でこそ一時間を切る程に縮まったものの、まだ最寄りの病院まで片道二時間は超えていた。
やっと病院に辿り着いた頃には既にこと切れていたことも少なくはなかった。その為、村人達は次第に身体を壊しても病院にかかるという風習すらも薄れていってしまったが、そこに現れたのが現、屋良医院の院長だった。
突如現れた医者という存在に村人はあからさまな拒否感を表したと聞く。今の祖父や祖母の世代が若い頃だったが、あまりに突然だった為、訪れた当初の屋良院長はまさに「宇宙人だった」という。しかし当の屋良院長からしたら、病院を忌み嫌い、医師である自分までを遠のける村人こそ宇宙人だったのではないかと今の若い世代には思えている。
若い世代には理解しがたい相当な苦労をしたであろう、十数年かけて、屋良院長は頑なな村の中で徐々に存在を確かなものにしていった。
今では町にとってなくてはならない存在で、どの住人も随分と世話になってきている。母の世代はこと感謝が尽きない、屋良医院がなければ子供の頻繁な体調不良もわざわざ長い時間をかけて隣町まで行かねばならなかった。
体調も悪く、我慢もしにくい小さな子供を連れて一時間以上の移動、受診、帰路など途方もなく、一日の半分は持っていかれてしまう。それも免許がある人間とない人間、共働きであった場合など、様々環境を考えてもやはり屋良医院の存在はなくてはならない。
発展しにくい片田舎に現れた、本物の救世主なのではなかろうか。あって良かったと思うことは多々あった。
長い坂道を登り切ると生徒達の声で一気に世界が華やかになる。この如月高校はこんな片田舎にさえあるが、周囲の小さな町や村、もっと離れた都会からも公共機関を駆使して通う生徒もいる為生徒数はけして少なくはない。
各学年四クラス、一クラス三十人を超えている。この田舎町でここだけ別世界のように明るいのも当然なことで、ともすれば行き過ぎることすらあった。
校舎に入ると至る所で濡れた制服から放たれる独特のにおいが立ち込め、いやに鼻をつく。教室の中は生徒の熱気も重なって外よりも蒸し暑く、更に臭気を強めてしまう。湿気で肌もべたつき最悪で、たまりかねた誰かが雨も気にせず窓を開ける、これがここ最近の流れになっている。
授業前、朝のホームルームが始まるまでが最も騒がしい。こと今日に限っては教師の到着も遅く、教室には他クラスの生徒までが入り乱れた。
彼、岡崎啓介は傍観している。騒ぐクラスメイトをぼんやり、片肘をついて薄ら目、今にも寝入りそうな程に気の抜けた様子でいる。
早朝目覚めて二度寝も出来ずに時間を過ごした所為で胃の辺りは鈍く痛み、体が重く怠い。動く気にも騒ぐ気にもまるでなれず、出来れば横になりたい。なったとしてもこの胃の不快感はそう簡単に消えてくれる気はしていないが、とりあえず体を休めたかった。その一心、なるべく体を動かさないことに尽きた。
体の表面だけがここにあって、中身が地面に吸い込まれているような、なんとも言えない不快感で時間の流れすら感じていなかったが、一瞬、我に返るような感覚ではた、とした。体の不快感で気がそげていたが、既に一時間目が始まってしまうまで経過していたのだ。
しかし未だ教師の姿はなく、教室内は賑やかさで溢れていたのだ。あれだけ時間にうるさい教師が珍しいものだと、岡崎の感情に嫌味が含まれたのだが、それもすぐに困惑に変化していく。
一時間目のチャイムが鳴り、それでも教師は現れなかった。なんだ、どうしたとクラスメイトも騒ぎ出し、そこからは早かった。
いつもは咎めるはずが廊下を駆けて教師が現れた。勢いよく扉を開け、呼吸も、表情も慌てふためいているのがはっきりわかる。
だがそこはまだ教師だった。大きく肩で呼吸を数回、生徒の視線を浴びて数秒で落ち着きを取り戻してゆっくりと扉を閉めたが、その動作と同じ流れで隣のクラスの教師が走り抜けて行く姿が見えた。同時に廊下が騒がしくなり、反して非日常的を目の当たりにした教室内は静まり返った。
教師が黒板の前に移動する動きを、誰もが目で追い、その口からの言葉を待ち望んだ。
「今から言うこと、やることを、落ち着いて守るように」
やけに落ち着き払った丁寧な言葉の発音で、異常事態であることを察せた。
数十分後、体育館へと集められる生徒達は各々の場所でサイレンの鳴り響く音を耳にした。
最初のコメントを投稿しよう!