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いつもと変わらぬ良い朝だ。
田村清彦は今日も日課となった朝の散歩を欠かさず、いつもと同じ道を歩んでいた。
今年七一になる。営業の職は多少の昇格は得たものの係長止まりで代わり映えのないありふれたものだった。その職を定期より四年早く退職してから(せざるをえなかったのだ)十四年は経つだろうか。日課となった散歩はその十四年間一度も欠かさずに行って来た。特にこの海沿いの平坦な道が好きで、ここに来るとついつい足を止めて海を眺めてしまう。
サラリーマン時代には考えもしなかったが、海とは本当に美しいものだった。
広く、濃淡が美しく時間によってその美しさも違う。あの頃がむしゃらに働いていた自分は常に小さなことも大きく見えてしまって、翻弄され続けていた時間ではこんな景色をじっくり眺める余裕などなかった。
もっと前にこの海を眺めていれば、なにか人生観が変わっていたのではないだろうか。
老いぼれた身には若い頃のような感性はなくなんにでも感激してしまう癖がある。きっと今とは違った感覚でこの海を見ていられたのだろう。
けれど実際はこんなものでなにも変化はなかったかもしれない。地元で、更に自宅の近くともなればあまりにも身近にありすぎて退職するまで一度だってこんなに素晴らしいものとは感じもしなかったのだから。
「惜しいことをしたものだなあ……」
細かな砂は踏み込む度につま先が滑り実に歩きにくいが何故か心が躍る。遥か昔の記憶、童心にでも触れて心身に思い起こさせているのかもしれない。
大きな海が穏やかにうねり、耳を癒す心地よい音と共に白い波となって浜辺をなぞる。始まったばかりの夏の朝は空と水面の差もそれ程もなく白くぼやけている。空気がやけに澄んで、磯の香りが靄のせいで晴れている時間よりも多少濃く感じるのが良い。日々こうして近くにあるものがまるで違う土地にすら感じられる。どこか遠方に旅行に行った時のような、心の昂りを感じて気分が良かった。
深く呼吸を繰り返し、冴えた空気を大きく息を吸い込むと頭の中まで冷えていくようだ。
けれど、この日は違った意味でも冷えた。
吐き出した自身の呼吸とは違った、誰かの呼吸が混じったのだ。それも、近い。当然息遣いが聞こえてしまうだけの距離ということだ。
体が跳ねる程驚いた。
靄の中、いつの間にか波打ち際に近づいていたようだった。驚き、跳ねた体は本能的に対象へと身構え、その存在を視界に捕らえようと必死になった。するとほんの数メートル先、海側に背を向けた一人の少年が歩を進めているのを見つけた。呼吸は近かったのではない、疲れたように、荒かったのだ。頼りなく進む歩は遅く、まるで進むことに躊躇うようにも見える。
その姿が力尽きた様に歩を止めた時、少年の着ている灰色のスラックスがこの町唯一の高校のものであると知れた。少々靄で霞んではいるが、酷く疲れた表情で海とは逆方向、住宅地を見据えて立ち尽くしてしまっている。
夏とはいえこうして早朝にはまだ靄がかかる。夏とは名ばかりにこの時間はまだ肌寒く、その姿は一体どれほどの時間ここで過ごしていたのだろうか。頭髪がぴったりと頭の形に添う程濡れている。震えているのか、これも疲労からなのか、少年は肩で息をしている。吐く息まで白いのかは、靄に隠れて見えなかったが。
少年はこちらを気にする素振りもなく、ただただ住宅地を見据えるばかりで田村はいよいよ背筋にひやりと薄気味悪さを感じた。
「君、こんな時間からどうしたのか知らないが、風邪を引く前に帰りなさい」
咄嗟に口を出た言葉に、恐らく引き攣った笑みも浮かべたことだろう。ぎこちない言い方をした自覚もあった。
田村は自然体を意識してその場を後にしたが、時折少年へ振り向いてはその存在を確認した。先程感じた薄気味悪さがそうさせてしまう。歩き難い砂浜もまた一層、もどかしさを助長した。
漸く砂浜から出て道路に出た頃には振り返っても少年の姿は確認出来なかった。早朝の靄がいつの間にか本格的な霧にと様子を変え、先程の出来事をなかったものにしてしまう。
少しの安堵を感じ、田村は予定通りのコースを進んだ。
単純に、少年はなにをしていたのだろう。あの年の頃はまだまだ行動が不思議なものがある、田村自身自覚があった。意味はないが友人とはどんな時間でも共に過ごしたものだ。昼間に肝試し、夜に釣りをし、初日の出でもないのに早朝集まっては山の上から日の出を見にも行った。
両親から見てもきっと滅茶苦茶であったろう。だがあの頃はやろうと思ったことはなんでもしてみたかった、行動せずにはいられなかった。子供から自由の利く年頃になり、先程の少年もきっとその年頃だ。わからなくもない、きっと自分と同じようにどんな時間も場所でも関係ない。海辺にいるだけ、騒いでなにかしでかしているようでもなかった。そんなものだろう。
いつも通りの道を随分進んだ。後八分程もすると自宅に着く。しかしここが難所だ、自宅までに続く道、四〇〇メートル程が坂道なのだ。急すぎでもなく、緩やかでもない。それが逆にコースを変える諦めにもならず、体力作りの肝にもなりつつある。
通い慣れたこの道をあとほんの少し行けば今朝は妻にどんな朝食を食わせてもらおうか、そう、考え始めたところだった。坂道を下る人影が見えてきた。徐々に田村へと近づくその姿は少し、線が細い。恐らく先程の少年程だーー
「……っひ!!」
見知った姿だ。つい先ほど見た制服と同じ、この町唯一の高校の珍しい灰色のスラックスを穿いていた。だが、先程の少年では、勿論ない。しかしその少年は先程の少年よりずっと、田村を驚かせた。
頭の形に添う程濡れた髪も同じ、年頃も、制服も同じ。ただ違うのは、ワイシャツから頬へと伸びる赤黒いものだった。
「ち、血……!!」
危うく腰を抜かしかけた。耐えたが、あまりのことに田村は動くことも、それ以上の声を上げることもかなわなかった。
こちらに向かって歩き続ける少年を、ただじっと目で追うことだけが田村に出来たことだった。霧のせいか、少年を染める赤い血がやけに生々しく、やけにぬらりと照って見えていた。
体の半分程を血で染めた少年は田村に見向きもせず、静かに歩き続ける。慌てることもなく、逃げ去ることもなく、ただただ進んで行く。
しかしその表情が、半身血塗れである現実とは裏腹にまで悲しく、噎び泣いているようだった。
田村を抜け、更に進む姿が霧に消えても暫く、その異様な静けさに田村の体は強張ったままだった。
実際にはどれ程の間動けずにいたのか、漸く動き出せた頃には田村は走り出し、自宅へと駆け込んだ。何事だと言うのか、海辺の少年から始まり、血まみれの少年まで。
数十分後、早朝の町にサイレンが響き渡り、赤色灯をかき消す程の濃い霧はその日一日、晴れることはなかった。
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