救済への技法

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 嘆きの道。ある日の夕景。  聖なるいにしえの都エルサレム。  雑多な旧市街を抜け、聖墳墓教会へと続く長い上り坂を歩いている。  古い友人を訪ねるために。  土産はベルトに挟んだベトウィンの男から十ドルで譲り受けた拳銃…。  嘆きの道と呼ばれる道の名はヴィア・ドロローサ。  友人(とも)の名はイエズス…。  頼まれもしないのに、みずからすべての人間の罪を背負っていたという。この坂を自分が架けられる十字架を背負わされ、ふらつきながら上ったお人好し。    尋ねたい事があった。  遠くで爆発でもあったのか、低く広がる重い音が夕暮れ近くの街を包み込む。高まる緊張が胃の奥でしこりとなり違和感を伴う。こみ上げる吐き気に俺はベルトに挟んで上着で隠した拳銃の所在を服の上から確認した。  残弾は二発。  残りはどこで使ったかわからない。  何度もこみ上げる吐き気を無理やり押さえ、この坂を上る俺の体は鉛のように重かった。  目鼻立ちから言葉まで、何もかもが違う異国の街。  やっと辿り着いたというのに、この街の連中ときたら本当にうんざりだ。  カビが生えた辛気臭いこの街じゃ、どいつもこいつも壁に頭をつけたり離したり、少し陽気な奴らでさえ、皆、同じ方角を向いて地べたに何度もひれ伏してやがる…。ジョークを交わす余裕も、取り付く島もありゃしない。  だが、奴の家まであと少し。  アポイントは取っていないが、奴とは古い顔見知りだ。問題はないだろう。  そう。俺が生まれる遥か昔。  奴が御苦労にも十字架を担ぎ、みずからの死地へと向かった嘆きの道。  俺に奴の苦労を思えと言われたって、無理な話だ。  俺と奴では生まれも育ちも違い過ぎる。  何より、お互い背負っているものが違い過ぎるのだから。  坂の上にはご立派な建物が訪れる者を威圧するように建っていた。  聖墳墓教会。そこが奴の家。  ロウソクの灯りに照らされた陰気な教会の中に入ると、奴は相変わらず昔と同じ姿で、苦しそうに十字架にぶら下がっていた。  突然の侵入を咎めるように近づいてきた大きな襟の黒ずくめの修道士を押しのけ、これまた辛気臭く祈りを捧げるヤツの熱烈なファンらしい老婆を突き飛ばして祭壇の前に立つ。 「久しぶりだな。相変わらず顔色が悪いぜ。たまには外の空気を吸わないと、その陰気でシケた面にカビが生えるぜ。どうだい?付き合えよ。コーヒーくらい奢るぜ。」  反応はあった。ヤツは俺を憶えていてくれたらしい。 「あなたのおっしゃることにも、一理ありますね。確かにこんな薄暗い教会の中で、毎日みなさんの嘆きの声に耳を傾けているのは精神衛生上、決して良くはないですね。」  久しぶりの会話と再会にヤツは自嘲気味に笑って言った。 「坂を下ったところにちょっといいカフェがあるんだ。つきあえよ。」 「いいでしょう。丁度、退屈していたところですし…。」  十字架から降りた彼に取り巻きの修道士どもが駆け寄り、何か囁いている。大方、外出に対する余計な御注進だろう。取り巻きどもの間に割って入った俺はヤツの手を取って出口へと向かった。 「外は危険です。貴方様にもしものことがあったら…。」 外出に最後まで頑強に反対する取り巻きどもに、俺は上着の下に隠したベルトに挟んだモノを見せた。修道士たちはベルトに挟まれた黒い物体にしばらくの間、視線を釘付けした後、哀しげな顔で後ろへと下がった。 「変わりませんね。あなたは…。何も変わっていない…。」 ヤツは皮肉まじりの台詞と笑顔を同時に俺に投げかけると、後ろに控える取り巻きどもに「心配はいりません。」と静かに告げ外に出た。  洞窟のような薄暗いカフェの中。  坂を下った俺たちの間にはまだひと言も会話がない。  注文をとりにきた浅黒いパレスチナ人の主人に濃く苦いアラビアン・コーヒーを二つ頼む。  ヤツはまだ黙っている。  注文を受けた主人がカウンターに消えると俺は口を開いた。  押しつぶされそうな沈黙に耐え切れなかったのだ。 「なあ。教えてくれよ。あんたは昔、俺に愛とは安らぎだといったよな。その意味を俺に教えてくれよ。そのために俺は、はるばるこんなクソッタレの国に来たんだぜ。」  ヤツは質問に答えなかった。  ただ、黙ったまま、黒く長い癖のある髪の毛をかき上げ、何か懐かしげな視線を飾り気のないカフェの店内に注いでいる。  そんな奴の態度に血が昇った俺は横のテーブルの脚を蹴飛ばした。安物のテーブルは派手な音を立てると、床にひっくり返る。カウンターから主人が飛び出し、周囲の者は非難の視線を俺に集中させる。 「迷惑料だ。」  財布からドル札を数枚、床にばら撒く。主人は床に散らばった数枚のドル札を慌ててかき集めると、愛想笑いを浮かべ小間使いのガキにテーブルを片付けさせた。非難の目を向けた周囲の連中は俺の腰に挟んだモノを見つけたのか、それきり俺に視線を向けることはない。 「本当に変わっていませんね。しかし、そんな貴方も子供のころは私の前にひざまずき、小さな手を合わせ、祈りを捧げてくれたものです。憶えていますか。そんなに昔のことではありませんよ。私が生きる時間と比べたら…。」  ようやく口を開いたヤツは俺の顔を見て、慈悲深い笑顔とやらを浮かべた。  「あの頃の貴方はやさしく、そしてなにより素直でしたね。」  「やめろよ。そんなくだらない昔話を語り合うためにここに来たわけじゃない。」  ヤツの口から出る言葉は、いちいち俺の神経を逆撫でる。  俺は強引に話題を変えた。 「なあ。あんたは神様ってヤツらしいじゃないか?俺はこの先、いったいどうしたら良いのか教えてくれよ。分かるんだろ?神様ならば…。」  ヤツは一瞬、哀れむような目を向けると横を向きながら言った。 「そんなことは自分で考えなさい。神と呼ばれる私とて、万能ではないのですから…。」  運ばれてきたコーヒーがテーブルの上で薄い湯気を立てている。時間だけがゆっくりと流れていく。  突き放すようなヤツの言葉に俺は反論すらできなかった。 「人々が神と呼ぶ私とて、重い業を背負っているのです。恐らく貴方以上のね。自分だけが不幸だと思えるのは幸せなことですよ。感謝しなさい。」  彼にしては珍しい棘のある言葉。  俺は俺自身が俺であるために必要な常の反応を示す。 「偉そうなことを言うなよ。あんたの業というものが、いかほどのものか知らないが、俺だって十分に苦しんでいるんだ。」  深まる夕暮れはエルサレムの街に夜の訪れが近いことを告げていた。  入り口から見える通りには家路を急ぐ帰る場所を持つ幸福な人々の群れ。坂を下るように吹く風は、金持ちや貧乏人の区別なく、平等に吹きつけ、衣服の裾を揺らしていた。 「貴方の誘いには感謝してます。しかし、その愚痴には耐えられませんね。いくら悠久の時を生きる私とて、そこまで暇ではないのです。」  口から出た彼の言葉は拒絶。その言葉は街に響きだした銃声とけたたましいサイレンの音同様、ため息をつく俺をさらにいらつかせるのに十分過ぎた。 「F××K!」  今年に入って、何百回、いや、何千回目の汚れた罵りをヤツに吐きつける。  「いいか。あんたの背負った罪ってやつがどれほど重いのか知らないが、俺だって、いろいろと背負い込んじまっているんだ。あんたの言葉を借りれば、迷える子羊を救いたまえってやつだよ」  「いえ、その言葉は私ではなくて、弟子の言葉です。そんなことも知らないのですか?」  ヤツは苛つく俺を無視するように道行く人々を眺めている。  ひとりで空回りする議論に俺はいたたまれない感情を苦いアラビアン・コーヒーを飲むことで押さえつけようとした。しかし、逆に口の中に広がる苦い液体が喉を通過する際に残していくザラつく豆の残り粕が余計に俺をイラつかせるだけだった。  時間だけがゆっくりと流れていく。  入り口から涼やかな風が吹き込んでくる。  重い沈黙が風とともに踊っていた。  俺の怒りとイラつきが頂点に達するのを待っていたようにヤツは口を開く。 「貴方はとうの昔に私に背を向けたのです。何を今更、私に望むのですか?」  静かに、囁くようにヤツの話は続く。 「貴方は今こそ自分の過ちを、過去を、罪を認めなさい。そして贖罪するのです。」  俺はイエズスが座る椅子の足を蹴りつけ、怒鳴った。 「うるせえんだよ。そんな話は聞きたくねえ!」 「いえ、私は口を閉ざしませんよ。貴方は、本当の貴方の姿は…」 「やめろ!」 「貴方の本当の姿は弱く、わがままで、傲慢な卑怯な男なのです。」 「黙れ!」  俺はベルトに挟んだ拳銃を抜き、イエズスの顔に照準を向けた。引き金を引けば銃口から飛び出す猛禽類の如く獰猛な銃弾が瞬時に目の前の標的に対し確実な死を届けてくれる。 「それ以上、口を開くな!」  聞きたくなかった。言われたくなかった。認めたくなかった。  そんなことは誰でもない自分が一番、良く知っているのだから。  たとえ神にでも言われたくはない。 「貴方はいつも自分から逃げ…」    俺はためらいなく引き金を引いた。  九ミリ弾特有の軽く乾いた鋭い銃声。  素早く引き金を引いたので、二発の弾の銃声は一発に聞こえる。  確実な死を届けるプレゼンターである二発の弾丸はイエズスの顔面から進入すると瞬時に脳を破壊し、後頭部に派手な射出孔を空け、背後の壁に食い込んだ。  弾倉の残弾が無くなったことを示すため、スライドが後退して止まった拳銃を握り締め、荒い息を静めることも忘れて、肩で息をしていた。  硝煙と生臭い血と脳髄の臭いが混じった嗅ぎ覚えのある香り…。懐かしくも惨い記憶が頭の中を狂ったように暴走する  床に転がったヤツの体。  奢れる人々の罪を背負い、贖罪に涙した罪人を哀れむ深い慈悲に満ちた瞳は銃弾の衝撃で醜く本来ある場所から飛び出していた。  人殺しと騒ぎたてるキリスト教徒、良くやったとでも言わんばかりに俺に手を振るムスリム、一瞬、中を覗くのだが、すぐにつまらなそうに立ち去るユダヤ人…遠巻きに囲む野次馬の中で、俺はようやく静まりだした荒い息を無理やり飲み込むと、ヤツの体に唾を吐いた。 「そうさ。あんたの言うとおりさ。これが俺だよ。何もない。誰も信じない。だから…独りになっただけさ…」  傷からあふれ出す湧き水のような血が広がる床にうずくまるように座り込むと、絶対に口にしたくなかった言葉、認めたくなかった言葉を口にした。射撃体勢のまま、硬直した指の中で固く握り締めたままの拳銃にまきついた指を左手で強引に押し開く。 硬い音をたて、床に落ちた拳銃は自らが放った銃弾によって流れた赤い海の中に落ちた。 一度は静まりかけた息が再び、荒くなっていく。息の乱れは止まることなく、荒い呼吸とともに吐き気をもよおし全身を振るわせた。  俺は…ヤツを…神を…殺した。  西日によって映し出される、うずくまったままの俺の影が乱れたことに気がつくのに時間はそう掛からなかった。  顔をあげると、無残としか言いようのない傷もそのままに、何事もなかったように立つヤツがいた。その端正な顔は打ち込まれた銃弾によって、ザクロのようになっているというのに。 「解りますか。これが貴方なのですよ。自分に都合の悪い者は認めない。そして、信じない。他人を認めず、信じないくせに、人に認めさせ、信じさせようとする。そのために手段を選ばない。だから、貴方は孤独(ひとり)になった。それだけですよ…。」 「しかし、貴方の気持ちも解りますよ。私は言いました。神である私も罪を背負っていると。その罪は恐らく人類の誰も体験したこともなく、まして人の身で背負えるものではないのです。私の罪は万死ですら生易しいものなのです。」  イエズスは流れ出す血を止めるどころか、ぬぐうこともせずに話を続けた。 「私の…母は…母であるマリアは処女で私を身篭りました…そう…私は…私は、普通の赤子と同様にただこの世に生を受けようとしただけで、実の母であるマリアの純潔を…処女を奪ってしまったのです。これほどの重き罪が人の世にあってはならない。煉獄の最下層で燃える業火に焼かれても、この汚れ堕ちた魂の罪は焼き尽くせるものではないのです」  ヤツの苦悩は続く。 「大いなる父は言いました。イエズスよ。お前の罪は果てぬ輪環の中、永劫に続くのだ。お前は肉の体が滅びても、永遠に人々の嘆きを聞き続けねばならない。それが実の母の純潔を奪った愚か者の定めだと…」  「貴方の表現を借りれば、私は真の意味で、人類初のマザー・ファッカーなのです。これほどの罪が貴方に背負えますか?」  気がつくと、イエズスは椅子に座って、奇跡的にもこぼれなかった冷めかけたコーヒーの残りを口に運んでいた。 「さっ、そろそろ帰りましょう。夜が来ます。暗くなると、この辺りは物騒ですから…コーヒー、御馳走様でした。」  ヤツはコーヒーの礼を述べ、立ち上がると俺の傍にきて、床に座り込んだままの俺の肩を両手でやさしく包みこむようにして、耳元に慈悲深い声で静かに囁いた。  「大丈夫。何も心配はいりませんよ。なぜなら…」  「……なぜなら…」  俺は神の言葉を力なく繰り返す。イエズスは少し間を置いて、言葉を続けた。 「貴方の人生はとっくに終わっているのですから…」 「シュ イエズス キリスト カミノコヨ ワレ ツミビトヲ アワレミタマエ…」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加