黄昏をもう少しだけ

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黄昏をもう少しだけ

 最初、呼ばれているのが自分だと気づかなかった。 「あの、すみません。真由美さん」  声の主は新しく入ってきた大学生アルバイトの真司君で、おろおろと私に助けを求めていたのだ。  彼が捕まっているのはご高齢の男性で、お孫さんに頼まれてチケットの発券に来たものの、機械の操作がわからないのだという。ちょうど良い機会なので真司君にもその場に残ってマルチコピー機の操作を覚えて貰った。 「すみませんね、年寄りになるとさっぱりこういったものに疎くて。お陰で助かりました」 「いえ、困った事があればいつでもお声掛け下さい。ありがとうございました」  笑顔でお見送りする私に、ワンテンポ遅れて真司君も頭を下げる。  レジに戻ると、もう一人のパートの沖田さんが笑いながら言った。 「真由美さんだなんて、変な呼び方するから。私も佐藤さんも全然気づかなかったわ」 「すみません」  真司君は照れ笑いを浮かべた。 「俺の中で佐藤さんって言うと店長になっちゃうんで、なんか佐藤さんと佐藤さんだと紛らわしくて、つい……」 「ああ、なるほどねぇ。だから名前で。びっくりした。二人がそういう関係なのかと思っちゃったわ」 「そんなはずないじゃない」  沖田さんの軽口に、私も笑い返す。それにしても驚いた。下の名前で呼ばれるのなんて何年ぶりだろう。  真司君を雇い入れた店長の名前は佐藤義雄。私の名前は佐藤真由美。たまたま同じありふれた苗字というだけで、特に血縁関係にはない。店長の事は店で働く誰もが店長と呼ぶから、「佐藤さん」と言えば自然と私を指す事になる。真司君はそれに抵抗を感じるらしい。  真司君の両親が昔から店長と親しい間柄にあり、真司君一家は昔から店長を「コンビニの佐藤さん」と呼んできた。そんなご縁からこの店でアルバイトをする運びになったものの、いざ働いてみると慣れ親しんだ「コンビニの佐藤さん」と別に「パートの佐藤さん」がいて紛らわしい(彼の言い方だと「なんかごっちゃに混ざっちゃって」)のだという。  説明されてみるとなるほどと思えなくもないが、久しぶりに下の名前で呼ばれた事はとても新鮮で、妙に懐かしい感じがした。  私がこの店で呼ばれる時は、同じ従業員からは「佐藤さん」、お客様からは「店員さん」「お姉さん」と声を掛けられる事がほとんどだ。家に帰れば、夫も中学ニ年生の息子も私を「お母さん」と呼ぶ。前に名前を呼ばれたのはいつだろうと考えてみたら、息子が生まれる以前まで遡らなければならない事に気づき、愕然とした。  だから真司君が私を名前で呼んだのに、十数年ぶりに真由美という名前を蘇らせてもらったような感動すら覚えた。そうそう、そういえば私、真由美っていう名前だった。結婚を機に変わった佐藤という苗字とも異なり、生まれた時に両親がつけてくれてからずっと変わらない大事な名前。  初対面の大学生が、自分よりもずっと目上の女性を本人に断りもなく名前で呼ぶなんてどうかと思わなくもないけれど。  こんな一幕にも代表される通り、真司君はなかなか不器用な子だ。高校時代にアルバイトの経験はなく、働いてお金を貰うのはこの店が初めてだという。部活動はしていたものの、私達大人の輪の中に自分一人で加わるのも初めて。知らない群れに放り込まれた子猿のように、コミュニケーション一つとるもの苦慮する始末だった。反面、とても素直で真っすぐな子だったから、教わったものはぐんぐん吸収していった。時々驚くような常識外れの言動をしてしまう失敗もあったけれど、私達は真司君を年の離れた弟のように親身に可愛がった。  それも最初のほんの二週間までの話で、研修中だからと人の多い昼のシフトに入れられていた真司君は程なくして人の薄い夜のシフトに移された。聞くところによると元々その予定だったらしい。  私と真司君が顔を合わせるのは、昼と夜のシフトが入れ代わる間の短い時間だけになった。
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