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私は去年の春に、生まれ育ったこの土地に二十数年ぶりに戻ってきた。別に今のような気ままなスローライフをしたくて帰ってきた訳ではなかった。確かに都会であくせく働く生活に疲れてはいたが、帰郷した理由は、実家で一人暮らしをしていた母の入院と退院後の療養の手助けをするためだった。父は十五年程前に癌で亡くなっている。
母の持病は年齢と共に悪化しつつあったが、当時は命にまでは係わらないものだと思っていたので、これからは母と同じ屋根の下に住み、家の近くでパートでもアルバイトでもして生計を立てようと考えていた。
それに当時はまだ必要ではなかったが、そんなに遠くない将来に介護も必要になってくるだろう。そういったことも踏まえての、それなりの覚悟を決めての帰郷だった。今までしていなかった親孝行のつもりもあった。
実は、母はこの数年前まで、自分の母親と祖母(私から見ると母方の祖母と曾祖母になる)の介護を担っていた。祖父と曾祖父は、私が大学生と小学生の時に亡くなっている。
プロの手を借りながらの介護ではあったが、二人の人間の介護に係るいろんなことを決めたり、何かあった時に対応したりするのが自分一人だけと言う状態は、本人は何も言わなかったが大変だったに違いない。
介護を終えてからは、自分の人生を目一杯楽しめるはずだった。しかし、母の持病は治療が必要な状態になり、母は私が実家に帰ってきてからわずか半年後に、突然悪化してこの世を去った。六十三歳だった。人間の命というものは、本当にあっけないものである。
母が亡くなって娘としての役割がなくなってしまった私は、仕事を辞めて東京から戻ってきた時以上の決断をした。それは、この先もこの土地で生活することと、自分が住む家を建てることだった。
母の死によって、私は両親が建てた家と土地の他に、曾祖母が残した古屋と土地も相続した。母も私も一人娘で、曾祖父母の子供である祖父も一人息子だったので、親のものだった家や土地を相続するのに誰と争うこともなかった。
なぜこの古屋と土地を、祖母ではなく曾祖母が残すことになったのかというと、祖母よりも曾祖母のほうが長生きしたからである。祖母は母が亡くなる四年前の七十八歳まで、曾祖母は三年前の百四歳まで生きた。
曾祖父母が建てた家は、同じ市内ではあるが、ちょっと辺ぴなところにある。市の中心部から約三・五キロ離れており、周りは田んぼと畑と山で、民家は少ない。
そこでは春は山に自生する山桜や椿が咲き、夏はカエルの鳴き声が聞こえ、秋はトンボが空を飛び交い、冬は冷たい空気がキンと冴える。曾祖父母と祖父母は生前同じ家に住み、四人ともひ孫と孫である私にとても優しかった。この家も庭も、近くを通る道路も、田んぼの真ん中を流れる川も、懐かしい思い出の場所だった。
いまだに自分でも、どうして自分が生まれ育った実家ではなく、この家に住みたいと思ったのか分からない。戦後に建てられた建物なので、古民家とまではいかないがノスタルジックな雰囲気が漂っているから、単にそういう部分に魅力を感じて、住んでみたいと思っただけなのかもしれない。
こんなふうに自分でもはっきりと理由を説明できないなかで、私は曾祖父母や祖父母との思い出のある古い家を改修してそこに住み、母の晩年を共に暮らした実家のほうを賃貸に出すことを決めた。
複数の不動産を所有している場合、比較的条件の良いほうを賃貸に出すか売却するかして、自分は敢えて条件が悪くて賃貸や売却が難しそうなほうに住むという選択は、不動産活用法として間違いではないと聞いたことがある。
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