肌ゆるめ

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肌ゆるめ

「おう、起きたんなら風呂行くか」 「ん……?」  頭と額に触れる感触に目を開く。  前髪に指を通して掻き上げる、厚い掌が遮って顔が見えない。  目を動かせば室内には光があふれ、朝が訪れたのが分かる。  息をつきながら身を起こして、記憶は曖昧ながらも負担をかけられて軋む関節をあちこち曲げ伸ばししてゆるめ。 「風呂…?」  下履きに足を通している背を少しぼんやりと眺め、髪を掻く。寝足りないというほどではないが、多少怠い。  おう、と機嫌良さそうに応じる声に瞬く内に、はたと、先日何かのついでのように言っていた浴場のことだと思い当たり、途端に目が覚める。 「温浴があるのだったか。いや、蒸し風呂か?」  エルフばかりが住む王都では水が好まれ、あたたかい湯というのも無くはないが、珍しい。行く、と頷き、脱ぎ散らかしの様相の衣服を拾い集めるように身に着ける。  いそいそとばかりに後につき、以前から目についていた大きな建物へと近付くのに、気分は浮つく。 「おう、沸いてっか、じいさん」  手前の扉を開いて声を掛けるアギレオの向こうから、なんだまたかお前、などという渋い声が聞こえる。  間口を塞ぐアギレオの身体の隙間から覗くように顔を出し、噂の炭焼き夫の顔も確かめにやる。おっ?と、しわがれた声が僅かに跳ねるのに、もう踵を返し始めているアギレオを後目に目礼する。 「エルフか。珍しいじゃねえか、っても、近頃ここじゃ流行ってんだかな」  レビのことを言っているのだろうと思うも、身勝手な案内人にあまり遅れると勝手が分からないかと、話を広げず頷いて。 「ハルカレンディアという。湯を使わせていただく」 「おー。ちょうど出入りの減る時間だ、ゆっくりしてけ」  ありがとう、ともう一度頭を下げてから、少し駆けるようにしてアギレオの後を追う。  なるほど続き間とでもいうべき距離にあるもう一つの扉を開けば湯の匂いがして、内心少しはしゃぐような気持ちが湧く。ここで服を脱いで、こっちに置いとけ、と寄越される説明を頭に入れながら、声に従い衣服を脱いでいく。  再び裸身になって踏み入れる浴室に、目を瞠らざるをえない。 「待て、本当にどういうところだここは…!」  すごいな…!と、その仕掛けに目を瞠る。  王都の公衆浴場ほど広いわけでもなければ、美しい装飾があるわけでもないが。見たところ砦で一番の長身のアギレオが足を伸ばしても余りそうな浴槽も大したものだが、それを満たすだけの湯量。その上、浴槽に湯を流し込むのに、どう見ても人の手を使っておらず、何かの機構が組み込まれているようで。 「おー、これだきゃ、よそに持ってきゃ商売ができるくれえだわ」  呵々とばかりに笑うアギレオが、自慢にするのも頷ける。そばで見てみようと浴槽に向ける足を、手首を掴んで留められ、なんだとその顔を振り返る。 「お前はエルフだからピンとこねえだろうが、先に身体流しとけ」 「ん、…」  エルフだから?と、首を捻るところに、腰を支えられ、桶で浴槽から汲み上げる湯を胸に掛けられ、瞬く。 「は……」  思いがけず少し温度の高い湯をかぶる肌が驚いて、それからゆるむ。 「はあ…、…ふ…」  腰を支えられる理由が分かるようで。  肌だけでなく筋肉や関節がゆるむ心地がして、少し、力が抜けそうになる。散々ねじり上げられ、無理な方向に押し込められた身に沁みて、快い。  続けて浴びせられる湯が途切れて、上げる顔を受け止めるように頬を包まれる。 「そのツラ」  笑われて、瞬く。 「ま、お前はエルフだからそれで構わねえが、一応な。さすがにこんだけの量だ、ジャバジャバ捨てられやしねえ、湯船に入る前に身体洗うことに決めてんのさ」  入ってていいぜ、と言いながら、設えられた置き台からアギレオが容れ物を取る。蓋をとって中身を手にすくい、身体に塗りつけていくのを見れば、もう呆気に取られるほかない。 「待て待て…。まさか石鹸なのか…。王宮かここは…」  見た目よりも柔軟らしく、器用に手をやって背まで洗っているのに、向こう向けと目線で示して。大いにまず確かめてみたく、それを手に取り、匂いを嗅ぐ。微かに薬草の匂いがする、石鹸とまでは言い難いかもしれないが。  向けられた背にそれを塗りつけ、そういえば背を見るのは珍しいことだと、まじまじとその褐色の肌を、よく発達した筋肉を見る。 「そいつは最近だな。レビが作ってんだ。最初はすんげえ花の匂いがするやつだったんだが、獣人連中から苦情が出てな」 「ああ…、……なるほど」  清潔を気にして石鹸代わりの薬を作ってしまうケレブシアもすごいが、その香りが獣人達の敏感な嗅覚には強すぎたというのも、ここらしくて微笑ましい。  背のあちこちに新しい傷があるのを、戦闘があったとは聞かないのにと思いながら、膝を着いて腰へ足へとそれを塗りつけていく。  全身を洗い終え、再び桶で汲む湯で薬を流すのを手伝い。背を流すのに僅かに顔をしかめるのに、しみるのか、と少し頬を緩める。 「背に傷があったな」  どんなやんちゃをするのだか、と思い巡らせるところに、返された言葉が思いがけなく、瞬いてしまう。 「おー。爪立てんのはいいが、もうちょい手加減してくれりゃ言うことねえな?」  手加減?と内心では首を捻るまま、お待ちかねだと、また手を引かれて浴槽に連れ込まれる。  はあ、と、浴びる比ではない、湯に浸かる心地良さに力を抜く。半ば脱力しながらも、そうだと首を巡らせ、浴槽に湯を注いでいる筒のようなものを見。壁の向こうにどうかしているらしい、と、首を傾げて巡らせる。 「最初に炭焼きのじいさんが居着いて、大工が風呂を作ったんだとさ。そいつは、それよりもっと後に船大工がこしらえた仕掛けで、どうかして川の水を汲み上げてるそうだ。炭焼きのじいさんが適当にやってんだが、残念ながらその仕掛けを知ってるやつはもういねえからな。壊れちまったら終いで、そん時ゃ手で汲むしかねえ」 「なるほど……」  水を汲み上げてどこかで炭焼きの火にあたためて、ここへ繋ぐ。言うのは簡単だが、それをすぐに形にしてみろと言われてもなかなか見当もつかない。手放しに感心しながらふと、胸から肩へと湯をすくっては掛けてくれているアギレオの手に気づき、振り返る。  狭いからなのだろう、その胸に背を預かられ、さすがに男二人では並べぬ湯の中で足を伸ばせるのが嬉しい。礼というわけではないが、こちらの胸や肩に湯を掛けるたびに湯から出てしまう腕へ、真似るように湯をすくっては掛ける。  時折遊ぶように肌をこする掌がくすぐったく、口許がゆるむ。 「――ぁッ!……!!」  脈略ないようにふいに、先ほど見たアギレオの背の傷の理由に気づいて、赤面する。  全身血が上るような羞恥で、湯のあたたかさを忘れるほどに。
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