逢魔ヶ時

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逢魔ヶ時

 至る所、往くところ、見る景色はどこもかしこも灰色の砂煙に曇り、雨の日にどんよりと覆う湿気に似て、血錆の匂いが満ちている。  血を流す傷口を押さえ、或いは痛めた身体を引きずりながら王都への道を戻る隊の最後尾に、尚も背後を警戒しながら就く、ラウレオルンの深碧の瞳は、怒りに燃えている。  吸い込まれるように森の木々の間へと踏み入れ、ようやく息をつくエルフ達を見守り。まだ自身は領土内へと距離を残しながら、馬の足を止める。 「ラウレオルン様、お顔をお拭いいたしましょう」  先に往けと繰り返し命じられ、ラウレオルンから距離を取りながらもしきりに振り返っていた一人のエルフが、彼が馬を止めたのを見て、自らの馬の鼻先を戻してその傍へと馬身を並べる。 「要らぬ」  返すラウレオルンの短い声は未だ剣戟の昂りと傷つけられた怒りに満ちている。 「甲冑もお召し物も王都でお召し替えいたしましょう。けれどお顔の汚れくらいは、」 「エルフ達の血は汚れではない!!」  美しい貌を険しく強張らせ、大気に響くかと思われるような重い声を荒げるラウレオルンに、けれど声を掛けたエルフは眉のひとつも動かさない。  怒鳴りつけられたエルフ、ラウレオルンの側近であるエルノールは無論、承知している。  王となるべく生まれたラウレオルンの纏う精霊の守護はその他のエルフの非ではなく、汚れなどが彼の肌に留まることもない。オークどもの返り血などは既に全て地に落ちただろう。  そのラウレオルンが、甲冑にも顔にも黄金の髪にもいつまでも血飛沫を留めてしまっているのは、彼がそれを拭うべきものであると考えていないからなのだろう。  全身を斑に染めてしまうほどの、エルフ達の血を。 「すまぬ。そなたに当たるのは見当違いだ」  深く激情を堪え、震えそうな固い声で告げられた詫びに、エルノールは頭を振る。 「そのようなことで少しでもお心が和らぎますなら、喜んで貴方の罵声受けましょう。百年でも千年でも」  当然のことだとでも言うよう、側近の声には動揺も、決意の固さすらもない。それに思わず、ラウレオルンは苦みを混ぜるように笑って息を抜く。 「よせ。余、…私の方が飽きてしまうに違いないわ」  私の方は飽きませぬ。と、ようやくその忠実の面に頬を緩めてエルノールは頷いた。  王子としてではなく騎士の一人として戦場に出ると決めてから、ラウレオルンは彼自身を「私」と呼ぶように改め、時折それがぎこちなく綻びそうになるのが痛ましい。  けれど、そう。主は正しい。王子が王子然と構えておられぬ痛ましさよりも、大地を血に染め大気に苦鳴を孕み続けるこの戦。長引く戦いに国は疲弊し、王都の民は次第に笑みを失っていく。  エルノール、と、呼びかけられ、はいと応じながら隣のラウレオルンを振り返る。 「先に戻っておれ」 「……は」  はい、と、素直に従う気はさらさらない。エルノールの務めはラウレオルンのために在ることであり、その言いなりになるためではない。  ラウレオルン自身も、命にエルノールが従ったか否かなど見届けず、馬を降りて歩き出す。  その先に、一人の女エルフが立っているのが見えた。  王都を背に戦の激しい方角を不安そうに見つめるエルフの傍で、ラウレオルンは足を止める。 「いかがした。何を見ている?」  ハッと、振り向いた途端に声の主が誰であるのかを悟り、女は慌てて身を屈める。 「ご無礼を…!」 「構わぬ。…」  声を継ぎかけて、ラウレオルンの唇がひととき空回る。  女は赤子を抱いていた。 「屈むでない。その子が窮屈であろう」  はい、と、消え入るような声で応え、赤子を抱いた女は身を起こし。 「どうしたのだ。……。その子の父を待っておるのか?」  戦場にはそのような話はいくらでも聞こえ、それが途切れるのも幾らも見てきた。そして、女が待っているのが騎士であるなら、今、"残った"騎士は全てが森へと帰りおおせたのを知っている。彼女が見つけられなかったのが、己が隊の者だとしたら。 「いいえ。いいえ、殿下」  言葉を淀ませ、選ぶように途切れる女の声を、頷いて待つ。 「待っているのは夫にございます。…今日は戻らぬのでしょう」 「そうか。そなたの夫は騎士隊の者か?」  いいえ、と、笑もうとしてし損じるよう、頬を和らげながら女は眉を歪める。 「夫は騎士隊の所属ではありません、殿下。まだ戻らぬだけでしょう」 「…そうか。では、父君はきっと戻られるであろう、エルフの子よ」  待つが良い、と、女が抱いた黒髪の乳飲み子に目を落とし、ラウレオルンは頬を緩める。 「この子の、…。…この子の父、私の兄は戻りません。兄も義姉も…」  沈む女の声に、ラウレオルンの頬が強張る。目を上げて、今にも零れそうな涙を湛えた目で、それでも慈しみの笑みを浮かべて赤子を見つめる女を見る。 「それで、兄の子をそなたが引き受けたか」  はい、と頷く彼女の顔は、明るいとは言いがたい。 「そなたには子はおらぬか」 「…っ、…私にも子供がおります」 「そうか。幾人だ?」  彼女は戦場に出た夫の帰りを待っている。自分の子を育てながら、両親を失った兄の子まで引き受け。 「…お許しを。…必ず、必ずどの子も育ててみせます。…エルフの子はエルフの未来、必ず、」  歯を食い縛り、絞り出すような声に、ラウレオルンは見せぬように薄く唇を噛む。忍ばせるように息を抜いて、背を緩め。 「そなたの夫はきっと戻るであろう。…だが、今夜ではないかもしれぬ。赤子を抱いたまま、夜風に当たるものではないぞ」  今日は家へ戻らぬか。と、噛んで含めるように言って聞かせれば、仰るようにいたします、と、返される声すら頼りない。  赤子を抱いた女に背を向け、馬へと戻れば、当然に自分と主の馬を留めて控えているエルノールへと、ラウレオルンは強い眼差しを向ける。 「あの女エルフと抱かれている赤子、兄の忘れ形見であるそうだ。詳しく調べられるか」 「ただちに」  応を返されて頷き、馬に跨がって手綱を握る。  国中、否、大陸中に死の匂いが充ち満ち、どんよりと疲弊が覆っている。  暗く重い、けれど折れぬ胸の内に不意に、今し方見たものが蘇る。  ただ目覚めたばかりであっただけか、泣きも笑いもせず見上げてきた、赤子の柳緑色の瞳の透明さ。  その二日後には、ただの郡民の赤子を引き取り自分が育てると言い出した第一王子に、王宮は小さな驚嘆に揺れた。
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